※掲載内容は本特集リリース時期(2010年8月20日更新)の情報です。内容が変更となる場合がありますので、事前に必ずお問合せください。あらかじめご了承ください。
◆徳川家康、進軍――― 中央「陣場野」へ


圧倒的な戦力を誇る東軍相手に、善戦を続ける西軍。
一進一退を繰り返すその戦況に苛立った家康は、東軍の士気を高めるため、そして戦況をもっとよく掴むために、激戦地近くの「陣場野」まで軍を進めます。
芝生の広がる開けた場所で、公園のように子供たちが遊ぶ姿も見られました。そのほかにも、遠くから観光に来ているらしき人たちの姿もチラホラ…。
陣跡の中央奥は「御床几場」と呼ばれていて、ここで首実検が行われました。「首実検」とは、討ち取った首を持ち寄って確認したり、戦功の判定をしたりすること。
…当時の様子を想像すると、チョット怖くなってしまいますね(@ @;)
ちなみに、ここまでやってくると、激戦区や島津陣跡はもう、スグそばです。今では住宅などの建物で見えませんが、おそらく当時は肉眼で敵陣が見えるほどの距離だったと思います。
一進一退を繰り返すその戦況に苛立った家康は、東軍の士気を高めるため、そして戦況をもっとよく掴むために、激戦地近くの「陣場野」まで軍を進めます。
陣場野 徳川家康最後陣跡
歴史民俗資料館から、道を挟んですぐ隣にあります。芝生の広がる開けた場所で、公園のように子供たちが遊ぶ姿も見られました。そのほかにも、遠くから観光に来ているらしき人たちの姿もチラホラ…。
陣跡の中央奥は「御床几場」と呼ばれていて、ここで首実検が行われました。「首実検」とは、討ち取った首を持ち寄って確認したり、戦功の判定をしたりすること。
…当時の様子を想像すると、チョット怖くなってしまいますね(@ @;)
ちなみに、ここまでやってくると、激戦区や島津陣跡はもう、スグそばです。今では住宅などの建物で見えませんが、おそらく当時は肉眼で敵陣が見えるほどの距離だったと思います。
◆三成と親交のあった東軍の武将 田中吉政

▲偶然か否か(?)、周りには「田中」の名前の付いたお店がたくさんあります(゚o゚ )
●
田中吉政●
東軍の将ではありますが、三成とは屋敷が近かった縁もあり、親交があったそうです。関ケ原の戦いで敗走した三成を捕らえたのは、皮肉にも、この田中吉政。
しかし吉政は昔の関係を重んじて、捕らえた三成のことを厚遇したそうです。そして三成も、「自分を捕らえたのが吉政で良かった」という主旨の言葉を残しています。
陣場野すぐ南に陣を構えていた東軍・田中吉政は、ここから三成の隊へと兵を進めます。
笹尾山のふもとから打って出てくる西軍の兵士と激突、別の東軍の隊とも協力しながら、激戦を繰り広げました。
それでも「近くに行けば武将の名前などの目印があるはず…」と思い、「田中」の名前を目印に探して歩いていたところ、ナント陣跡のあるはずの付近に、陣跡ではなく「食料品 田中商店」や「田中洋服店」などのお店を発見!
もしや田中吉政の陣跡は、洋服屋さんや食品屋さんに姿を変えてしまったのか…と思って呆然としていると、そのすぐ目の前に田中吉政の陣跡を無事発見しました!(^^;)
それにしても、これは偶然なのでしょうか…?(゚o゚ )
笹尾山のふもとから打って出てくる西軍の兵士と激突、別の東軍の隊とも協力しながら、激戦を繰り広げました。
田中吉政 陣跡
陣場野の家康陣から向かうと、ちょうど反対側を向いている格好になるため、探すのにとても苦労した陣跡です。それでも「近くに行けば武将の名前などの目印があるはず…」と思い、「田中」の名前を目印に探して歩いていたところ、ナント陣跡のあるはずの付近に、陣跡ではなく「食料品 田中商店」や「田中洋服店」などのお店を発見!
もしや田中吉政の陣跡は、洋服屋さんや食品屋さんに姿を変えてしまったのか…と思って呆然としていると、そのすぐ目の前に田中吉政の陣跡を無事発見しました!(^^;)
それにしても、これは偶然なのでしょうか…?(゚o゚ )
西軍優位を決定的なものにするため島津隊に進軍を依頼、しかしこれを断られてしまった三成。
しかし諦めている場合ではありません。西軍優位を確実にするため、ここで三成は「のろし」を上げ、垂井町・南宮山に布陣している毛利隊、そして松尾山に布陣している小早川隊に進軍を合図します。
しかしいつまで待っても、この二隊が動くことはありませんでした。
しかし諦めている場合ではありません。西軍優位を確実にするため、ここで三成は「のろし」を上げ、垂井町・南宮山に布陣している毛利隊、そして松尾山に布陣している小早川隊に進軍を合図します。
しかしいつまで待っても、この二隊が動くことはありませんでした。
◆動かない…動けない?西の大勢力 毛利秀元



▲ふもとには南宮大社があります

▲吉川の陣跡。左奥に見えるのは不破高校。吉川の「弁当を食べるとでも言えば…」は実話だそうです。
●
毛利秀元●
人望という意味で問題のあった三成の代わりに名目上「西軍の総大将」となった、毛利輝元の「代理」として参戦。関ケ原合戦当時22歳という若さだったにも関わらず、総大将代理を任されても周囲が納得するほどの家格と人柄を兼ね備えた人物だったそうです。こんな優れた人物が最後まで戦いに参加できなかったのは…やっぱりなんだか残念な気がしますね。
垂井町・南宮山。
真ん中を通ってくる東軍を、真横から攻撃できる位置に布陣していた毛利秀元は、進軍合図ののろしを見ると、「我らの出番ぞ」と立ち上がります。
同じく南宮山に布陣していた僧侶出身の大名・安国寺恵瓊とともに、進軍準備を始めました。
しかしなぜか、毛利家の片腕である家臣・吉川広家がこれを阻害。進軍しようとする毛利秀元や安国寺恵瓊を、押し留めてしまいます。
いくら進軍を催促しても、「弁当を食べるとでも言っておけ」などと言ってのらりくらり要求を退ける始末。
味方同士での争いを嫌った毛利隊は、そのまま進軍することもできず、身動きが取れなくなってしまいました。
毛利の進軍を阻害した吉川広家は、実は合戦が始まる前から東軍と内通しており、「毛利家の戦闘不参加」を誓う書状を東軍側に送っていたのです。
ちなみにこの吉川広家の陣跡は、垂井町 不破高校の真横にあります。
ハイキングコースになっているので気持ちよく登ることができますが、山は山。途中で鹿に出会うこともしばしば(^-^)。
上に着くと休憩所があり、陣跡を示す石碑と立て札、そして大きな地図のパネルがあります。
さすがにかなり登ってきただけあって、頂上からの眺めは素晴らしいの一言!空気の澄んだ時期に登れば、濃尾平野が遠くまでクッキリ見えます。…しかし、関ケ原の方角はあまり見えませんでした(^^;) 合図の「のろし」を見るのも、遠すぎて大変だったのではないでしょうか…。
しかし、真ん中に布陣する東軍を叩くのにこれほどベストな位置はありません。当時ここに布陣していた毛利隊は約1万5千弱。
この大軍勢が、もしこのとき、進軍していたら…と思わずにいられません。
ちなみにここは、これまで回ってきた関ケ原町ではなく、垂井町の史跡。町を跨いでいるからなのか、のぼり旗の「の」の字も見当たりませんでした。
陣跡にはやっぱり、のぼり旗が無いと寂しいです。
真ん中を通ってくる東軍を、真横から攻撃できる位置に布陣していた毛利秀元は、進軍合図ののろしを見ると、「我らの出番ぞ」と立ち上がります。
同じく南宮山に布陣していた僧侶出身の大名・安国寺恵瓊とともに、進軍準備を始めました。
しかしなぜか、毛利家の片腕である家臣・吉川広家がこれを阻害。進軍しようとする毛利秀元や安国寺恵瓊を、押し留めてしまいます。
いくら進軍を催促しても、「弁当を食べるとでも言っておけ」などと言ってのらりくらり要求を退ける始末。
味方同士での争いを嫌った毛利隊は、そのまま進軍することもできず、身動きが取れなくなってしまいました。
毛利の進軍を阻害した吉川広家は、実は合戦が始まる前から東軍と内通しており、「毛利家の戦闘不参加」を誓う書状を東軍側に送っていたのです。
ちなみにこの吉川広家の陣跡は、垂井町 不破高校の真横にあります。
毛利秀元 陣跡
史跡めぐりというよりも、登山に近い状態となる毛利秀元の陣跡。ハイキングコースになっているので気持ちよく登ることができますが、山は山。途中で鹿に出会うこともしばしば(^-^)。
上に着くと休憩所があり、陣跡を示す石碑と立て札、そして大きな地図のパネルがあります。
さすがにかなり登ってきただけあって、頂上からの眺めは素晴らしいの一言!空気の澄んだ時期に登れば、濃尾平野が遠くまでクッキリ見えます。…しかし、関ケ原の方角はあまり見えませんでした(^^;) 合図の「のろし」を見るのも、遠すぎて大変だったのではないでしょうか…。
しかし、真ん中に布陣する東軍を叩くのにこれほどベストな位置はありません。当時ここに布陣していた毛利隊は約1万5千弱。
この大軍勢が、もしこのとき、進軍していたら…と思わずにいられません。
ちなみにここは、これまで回ってきた関ケ原町ではなく、垂井町の史跡。町を跨いでいるからなのか、のぼり旗の「の」の字も見当たりませんでした。
陣跡にはやっぱり、のぼり旗が無いと寂しいです。
◆双方から誘われ… 裏切りの貴公子(?) 小早川秀秋



●
小早川秀秋●
「関ケ原」当時若干19歳だった彼は、二度も養子に出されるという複雑な過去を持っていました。宇喜多秀家と同じく、子の無かった秀吉の養子となった秀秋は、秀吉の期待を受けて育ちます。しかし後になって秀吉に子ができると、まるで厄介払いのような形で小早川家へ養子として出されました。
「合戦で小早川秀秋が裏切らなければ」という「もしも」はよく聞きますが、それぞれの人物の行動はいきなり始まるものではなく、こうした過去から全て始まっているのかもしれません。
関ケ原の戦い後、彼はその裏切りで東軍を勝利に導いたことで大大出世をしますが、「裏切り者」の烙印と世間からの白い目に耐えかね、2年後に狂死してしまいます。
一方、関ケ原・松尾山に布陣していた小早川秀秋にも、進軍の合図である「のろし」が見えていました。
この小早川隊もまた東軍を「挟み撃ち」にするのに重要な位置に布陣しており、更にその兵力は西軍第二という大軍。ここで小早川隊が進軍して東軍を叩けば、西軍の優位は確実なものとなります。
しかし小早川秀秋は、進軍合図にも動こうとはしません。
実は、彼は西軍からも東軍からも「戦に勝てば領地増、出世も約束」と誘われていたため、どちらに付くかを決しかねたまま合戦の日を迎えてしまっていました。
おまけに、松尾山は、戦いの様子が非常によく見える場所。
一進一退を続ける西軍と東軍の様子を上から見ていた小早川は、どちらに付くのが有利なのかを決められないまま、ただただ戦いの様子を眺めるばかり。
動かない小早川隊に、不信感を隠せない三成。
しかし、苛立っていたのは三成だけではありませんでした。東軍の徳川家康もまた、いつまで待っても動く気配のない小早川隊に苛立っていました。東軍は東軍で、小早川秀秋に再三「お誘い」の伝令を送っていたのです。
しびれを切らした家康は、なんと小早川隊に向かって発砲!これには小早川秀秋も仰天します。
「家康がとうとう怒った!」と慌てた小早川隊は、一気に山を駆け下り、攻撃をはじめます。
目の前にいる、味方であるはずの西軍・大谷隊に向かって。
松尾山の近くまで来ると、小早川隊の旗印である「違い鎌」の旗がたくさん立っています。いよいよ山に入るその入り口にも、「違い鎌」の旗が…。薄暗い山の中へと、まるで誘導するように立っているたくさんの草刈鎌の家紋に、なんだか複雑な気分になってしまいます(^^;)
頂上からの眺めは、それはもう素晴らしく、40分の疲れも吹き飛ぶほど。
なんとここ、三成の本陣のある笹尾山や宇喜多隊・小西隊のいる天満山も一望できるんです!
こんなに見晴らしの良い場所から戦いを見ていたら、確かにどちらの味方をすればいいのか迷ってしまう…かも?!
この小早川隊もまた東軍を「挟み撃ち」にするのに重要な位置に布陣しており、更にその兵力は西軍第二という大軍。ここで小早川隊が進軍して東軍を叩けば、西軍の優位は確実なものとなります。
しかし小早川秀秋は、進軍合図にも動こうとはしません。
実は、彼は西軍からも東軍からも「戦に勝てば領地増、出世も約束」と誘われていたため、どちらに付くかを決しかねたまま合戦の日を迎えてしまっていました。
おまけに、松尾山は、戦いの様子が非常によく見える場所。
一進一退を続ける西軍と東軍の様子を上から見ていた小早川は、どちらに付くのが有利なのかを決められないまま、ただただ戦いの様子を眺めるばかり。
動かない小早川隊に、不信感を隠せない三成。
しかし、苛立っていたのは三成だけではありませんでした。東軍の徳川家康もまた、いつまで待っても動く気配のない小早川隊に苛立っていました。東軍は東軍で、小早川秀秋に再三「お誘い」の伝令を送っていたのです。
しびれを切らした家康は、なんと小早川隊に向かって発砲!これには小早川秀秋も仰天します。
「家康がとうとう怒った!」と慌てた小早川隊は、一気に山を駆け下り、攻撃をはじめます。
目の前にいる、味方であるはずの西軍・大谷隊に向かって。
小早川秀秋 陣跡
関ケ原の史跡をめぐる中で、一番大変だったのがこの小早川秀秋の陣跡でした。完全なる登山になる上、陣跡に付くまでに40分ほどの時間がかかります。ハイキング用の自然歩道として整備されているとはいえ、体力に不安のある方は注意したほうがよさそうです。松尾山の近くまで来ると、小早川隊の旗印である「違い鎌」の旗がたくさん立っています。いよいよ山に入るその入り口にも、「違い鎌」の旗が…。薄暗い山の中へと、まるで誘導するように立っているたくさんの草刈鎌の家紋に、なんだか複雑な気分になってしまいます(^^;)
頂上からの眺めは、それはもう素晴らしく、40分の疲れも吹き飛ぶほど。
なんとここ、三成の本陣のある笹尾山や宇喜多隊・小西隊のいる天満山も一望できるんです!
こんなに見晴らしの良い場所から戦いを見ていたら、確かにどちらの味方をすればいいのか迷ってしまう…かも?!
◆重病を押して出陣、友情に殉じた知将 大谷吉継


▲しばらく歩くと、吉継の青いのぼり旗が見えてきます。

▲お墓には、新しいお花と線香が供えられていました。

「小早川隊、裏切り!」
味方であるはずの小早川隊の攻撃を受け、西軍の兵士から裏切りを知らせる報が何度も飛んだと言います。
しかし、小早川の寝返りを予見していた人物がいました。予見していたからこそ、ここに陣を置いていたその人物は、西軍の知将・大谷吉継。
彼は、合戦が始まる前から小早川隊の動きを警戒し、万が一小早川が裏切ってもそれを抑えられる位置に布陣していたのです。
一斉になだれ込んでくる小早川隊の大軍を迎撃した大谷隊は、自分の隊の3倍以上もの敵を、何度も何度も押し戻します。
しかし、「小早川の寝返り対策」として大谷吉継が松尾山のふもとに配置しておいた西軍の赤座・小川・脇坂・朽木の四部隊が、小早川の裏切りと同時にすべて東軍に寝返ってしまいます。
さすがにこれには、大谷吉継も顔色を失いました。
大谷隊は、敵軍と化して殺到する小早川・赤座・小川・脇坂・朽木、そして藤堂隊らの大軍に飲み込まれ、壊滅。
敗北を悟った吉継は、この地で自害。部下に首を切らせ、その首が敵軍に見つからないように地中に埋めさせました。
私がお墓に着いたのはまだ午前でしたが、既に吉継のお墓には、真新しいお花と線香が供えられていました。そして帰り道にも、お供え用のお花を持った女性とすれ違いました。
三成の盟友であり、三成との友情のために戦って散った吉継のお墓は、死後400年以上経った今でも、こうしてお花と線香が絶えることはないそうです。私も、次に行く時にはお花を持って行こうと思います(^^)
お墓から少し離れた場所に、大谷吉継の陣跡があります。
完全なる山の中にある陣跡は、陣跡であることが信じがたいほど視界が悪く歩行も困難…。こういった場所に陣を置いたからこそ、前方の敵軍に対応しつつ小早川隊を警戒することができたのですね。
さすがは、知将・大谷吉継!(^-^)
味方であるはずの小早川隊の攻撃を受け、西軍の兵士から裏切りを知らせる報が何度も飛んだと言います。
しかし、小早川の寝返りを予見していた人物がいました。予見していたからこそ、ここに陣を置いていたその人物は、西軍の知将・大谷吉継。
彼は、合戦が始まる前から小早川隊の動きを警戒し、万が一小早川が裏切ってもそれを抑えられる位置に布陣していたのです。
一斉になだれ込んでくる小早川隊の大軍を迎撃した大谷隊は、自分の隊の3倍以上もの敵を、何度も何度も押し戻します。
しかし、「小早川の寝返り対策」として大谷吉継が松尾山のふもとに配置しておいた西軍の赤座・小川・脇坂・朽木の四部隊が、小早川の裏切りと同時にすべて東軍に寝返ってしまいます。
さすがにこれには、大谷吉継も顔色を失いました。
大谷隊は、敵軍と化して殺到する小早川・赤座・小川・脇坂・朽木、そして藤堂隊らの大軍に飲み込まれ、壊滅。
敗北を悟った吉継は、この地で自害。部下に首を切らせ、その首が敵軍に見つからないように地中に埋めさせました。
大谷吉継 陣跡、大谷吉継の墓
藤古川ダムの西、「大谷吉継 陣跡」の案内がある場所から山へ入ります。山道を15分ほど歩くと、大谷吉継の家紋印ののぼり旗が見えてきました。吉継のお墓に到着です。私がお墓に着いたのはまだ午前でしたが、既に吉継のお墓には、真新しいお花と線香が供えられていました。そして帰り道にも、お供え用のお花を持った女性とすれ違いました。
三成の盟友であり、三成との友情のために戦って散った吉継のお墓は、死後400年以上経った今でも、こうしてお花と線香が絶えることはないそうです。私も、次に行く時にはお花を持って行こうと思います(^^)
お墓から少し離れた場所に、大谷吉継の陣跡があります。
完全なる山の中にある陣跡は、陣跡であることが信じがたいほど視界が悪く歩行も困難…。こういった場所に陣を置いたからこそ、前方の敵軍に対応しつつ小早川隊を警戒することができたのですね。
さすがは、知将・大谷吉継!(^-^)
●
大谷吉継●
あの豊臣秀吉に、「100万の兵を指揮させてみたい」と言わせたほどの才能の持ち主。しかし重病を患っており、「関ケ原の戦い」のときには視力がほとんどなく、手足も自由に動かせなかったそうです。しかし、幼いころから仲が良く、公私共に親交があった三成のために病を押して出陣を決意。その優れた才を三成のために使いました。
重い病に冒されていた吉継は、病のために崩れた顔を人目に晒すことを嫌って、常に白い布で顔を覆っていたと言われています。
あるとき豊臣家の将が集う茶会で、1つの茶器からお茶を回し飲む際、吉継のあとの者は病気がうつることを気味悪がって飲むのをためらいましたが、それを見ていた三成は、その茶を奪い取り、全て飲み干したと言います。
そんなエピソードが現代に伝わっているほど、吉継と三成は固い友情で結ばれていました。
◆東軍の策士暗躍 ――― 藤堂高虎


●
藤堂高虎●
生涯に何度も主君を変えた武将として知られており、そのため「世渡り上手」などと言われることの多い人物。しかし戦功は抜群で、家康の信頼はとても厚かったそうです。戦後、大谷吉継のお墓を立てたのは、この藤堂高虎だと言われています。
彼が吉継のお墓を立てた理由は諸説あるようですが、命を賭して敵の流入を防ごうとした大谷隊の奮闘ぶりに感服、敬意を表して立てたというのが一般的です。
小早川秀秋の裏切りにも、大谷吉継がこれを予見・迎撃し、ギリギリではあるものの、押さえがきいていた西軍。
しかしその直後の赤座・小川・脇坂・朽木の四部隊の裏切りで追い討ちをかけられた大谷隊は無念にも壊滅、総崩れになりました。
この赤座・小川・脇坂・朽木の四部隊に「東軍への寝返り工作」をおこなったのは、東軍の藤堂高虎。
藤堂隊は、東軍に寝返った小早川・赤座らと壮絶な死闘を繰り広げる大谷隊をさらに攻撃。壊滅に追い込みました。
陣跡を探していたのに中学校に着いてしまった…と思って徒歩で近づいてみると、中学校の敷地内に藤堂高虎・京極高知の陣跡を発見しました!
藤堂高虎、そして京極高知の両隊は、今の関ケ原中学校付近に陣を置き、開戦直後から松尾山付近の西軍に備えたと言います。
今では中学校のほかたくさんの住宅や建物が建っているせいか、ここから松尾山まではかなり距離があるように見えました。
しかしその直後の赤座・小川・脇坂・朽木の四部隊の裏切りで追い討ちをかけられた大谷隊は無念にも壊滅、総崩れになりました。
この赤座・小川・脇坂・朽木の四部隊に「東軍への寝返り工作」をおこなったのは、東軍の藤堂高虎。
藤堂隊は、東軍に寝返った小早川・赤座らと壮絶な死闘を繰り広げる大谷隊をさらに攻撃。壊滅に追い込みました。
藤堂高虎 陣跡
住宅街の細い道を走りながら、案内板に沿って曲がってみると、関ケ原中学校が(゚o゚ )陣跡を探していたのに中学校に着いてしまった…と思って徒歩で近づいてみると、中学校の敷地内に藤堂高虎・京極高知の陣跡を発見しました!
藤堂高虎、そして京極高知の両隊は、今の関ケ原中学校付近に陣を置き、開戦直後から松尾山付近の西軍に備えたと言います。
今では中学校のほかたくさんの住宅や建物が建っているせいか、ここから松尾山まではかなり距離があるように見えました。
◆壮絶すぎる撤退戦 ――― 島津の”若き鬼” 島津豊久

▲足止めに残った兵は確実に犠牲になってしまうという、壮絶な「すてがまり」。豊久もここで、義弘の身代わりとして犠牲になりました。



●
島津豊久●
島津義弘の甥で、関ケ原の戦い時、31歳。幼少のころに父親が亡くなり、以降は叔父である義弘を父親のように慕ったといいます。
「関ケ原」での壮絶な撤退劇は、全国に島津(薩摩)の名前を轟かせる結果となりました。
敵ながら豊久の戦いぶりに感銘を受けた東軍武将たちは彼の死を惜しみ、その亡骸を手厚く葬ったそうです。
小早川隊の裏切りで大谷隊が壊滅すると、中央の戦線を保っていた宇喜多隊、小西隊も順に崩れ、敗走します。
西軍の敗北を悟った島津隊は退却を決意しますが、後ろに撤退するのではなく、ナント敵のド真ん中を突っ切って撤退するという「敵中突破」を開始!
「前に向かって退く」という前代未聞の撤退劇に、東軍もビックリ。鬼気迫る勢いで突進してくる島津隊に押され、東軍の兵たちはそれを防ぐこともできず、唖然としたまま見送ってしまいます。
あわてて東軍の井伊直政らが追撃したものの、西軍・島津豊久に重症を追わされてしまいます。
このとき島津隊が選んだ策が、「捨てがまり」と呼ばれる壮絶な撤退戦でした。
これは、敵中に突撃する際、腕の良い者を少しづつ残しながら撤退するというもの。残した兵が全滅すると、また再び少数の兵を残し、突撃させる…という繰り返しで、敵の足止めをしながら撤退する方法。
しかし足止め役の兵は確実に死亡するため、家としての結束が非常に強かった島津家ならではの作戦と言えます。
この撤退戦で、島津豊久は突撃隊の先鋒となって奮戦。
最期は、叔父である島津義弘の身代わりとなって命を落としました。
命を賭して敵軍を食い止めた豊久の奮戦の甲斐あって、義弘は無事、敵中突破を果たします。
1600人ほど居た兵士が80人余りにまで減るという甚大な被害を受けながらも、島津隊は、そのまま九州へと帰還していきました。
豊久はこの場所で、追ってくる東軍武将たちを迎え撃って足止めし、義弘を前へ進ませたと言います。
敵兵に囲まれ、着ていた羽織が飛び散るほど四方八方から槍で突き上げられるという壮絶な死に方をした豊久の石碑の前に立っていると、なんだかとてもしんみりした気持ちになりました。
石碑は見晴らしの良い静かな場所にあって、当時の壮絶な様子など想像もできないくらい気持ちの良い場所です。
「さすが島津家」と言うほど立派な石碑には当時の様子が書かれた碑文があり、それを読んでまたしんみり。
敵にとって恐怖の的になったと言われる「丸に十字」の旗印が、横にポツンと立てられています。
西軍の敗北を悟った島津隊は退却を決意しますが、後ろに撤退するのではなく、ナント敵のド真ん中を突っ切って撤退するという「敵中突破」を開始!
「前に向かって退く」という前代未聞の撤退劇に、東軍もビックリ。鬼気迫る勢いで突進してくる島津隊に押され、東軍の兵たちはそれを防ぐこともできず、唖然としたまま見送ってしまいます。
あわてて東軍の井伊直政らが追撃したものの、西軍・島津豊久に重症を追わされてしまいます。
このとき島津隊が選んだ策が、「捨てがまり」と呼ばれる壮絶な撤退戦でした。
これは、敵中に突撃する際、腕の良い者を少しづつ残しながら撤退するというもの。残した兵が全滅すると、また再び少数の兵を残し、突撃させる…という繰り返しで、敵の足止めをしながら撤退する方法。
しかし足止め役の兵は確実に死亡するため、家としての結束が非常に強かった島津家ならではの作戦と言えます。
この撤退戦で、島津豊久は突撃隊の先鋒となって奮戦。
最期は、叔父である島津義弘の身代わりとなって命を落としました。
命を賭して敵軍を食い止めた豊久の奮戦の甲斐あって、義弘は無事、敵中突破を果たします。
1600人ほど居た兵士が80人余りにまで減るという甚大な被害を受けながらも、島津隊は、そのまま九州へと帰還していきました。
島津豊久の碑
関ケ原から上石津の牧田方面へ抜ける烏頭坂に、島津豊久の碑があります。豊久はこの場所で、追ってくる東軍武将たちを迎え撃って足止めし、義弘を前へ進ませたと言います。
敵兵に囲まれ、着ていた羽織が飛び散るほど四方八方から槍で突き上げられるという壮絶な死に方をした豊久の石碑の前に立っていると、なんだかとてもしんみりした気持ちになりました。
石碑は見晴らしの良い静かな場所にあって、当時の壮絶な様子など想像もできないくらい気持ちの良い場所です。
「さすが島津家」と言うほど立派な石碑には当時の様子が書かれた碑文があり、それを読んでまたしんみり。
敵にとって恐怖の的になったと言われる「丸に十字」の旗印が、横にポツンと立てられています。
◆「大一大万大吉」の意味 ――― 石田三成が目指したもの




西軍の敗走が続く中、ギリギリまで奮闘した三成の本陣もついに崩壊。
関ケ原の戦いは、ついに東軍勝利という形の決着を見ました。
敗戦後、伊吹山方面へ逃亡していた三成でしたが、数日後に田中吉政の隊に捕縛され、小西行長・安国寺恵瓊らと共に処刑されました。(享年41歳)
西軍に味方した武将や大名はほとんどが処罰対象となり、毛利家などは結局最後まで戦いに参加していないにも関わらず、領地を大幅に縮小されてしまいます。
逆に、東軍に味方した武将には多くの領地が与えられ、その多くが大名へと出世しました。
これにより「豊臣家」は大幅に縮小され、家康のもとで天下は再び統一。
「関ケ原の戦い」から3年後の1603年、家康の手によって江戸幕府が開かれました。
平日の夕方だったにも関わらず、笹尾山にはまだまだたくさんの人の姿があってビックリ!
改めて笹尾山に登ってみると、陣跡を回る前とはまた違った目で景色を眺めることができました。当時の布陣の様子が目の前に見えるような気さえします。
三成が好んで使用した旗印「大一大万大吉」。
これには、「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」という意味があるそうです。簡単に言えば、「みんなが1人のために、1人がみんなのために」という意味ですね。
彼が目指したものはなんだったのか、たとえば家康ではなく彼が日本を統一したとしたら、どんな日本になっていただろう…。
そんな「もしも」の話を考えるのも、歴史の面白さのひとつかもしれません。
関ケ原の戦いは、ついに東軍勝利という形の決着を見ました。
敗戦後、伊吹山方面へ逃亡していた三成でしたが、数日後に田中吉政の隊に捕縛され、小西行長・安国寺恵瓊らと共に処刑されました。(享年41歳)
西軍に味方した武将や大名はほとんどが処罰対象となり、毛利家などは結局最後まで戦いに参加していないにも関わらず、領地を大幅に縮小されてしまいます。
逆に、東軍に味方した武将には多くの領地が与えられ、その多くが大名へと出世しました。
これにより「豊臣家」は大幅に縮小され、家康のもとで天下は再び統一。
「関ケ原の戦い」から3年後の1603年、家康の手によって江戸幕府が開かれました。
ふたたび笹尾山へ
合戦の流れに沿ってすべての陣跡を回った後、再び西軍本陣のあった笹尾山を訪れました。平日の夕方だったにも関わらず、笹尾山にはまだまだたくさんの人の姿があってビックリ!
改めて笹尾山に登ってみると、陣跡を回る前とはまた違った目で景色を眺めることができました。当時の布陣の様子が目の前に見えるような気さえします。
三成が好んで使用した旗印「大一大万大吉」。
これには、「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」という意味があるそうです。簡単に言えば、「みんなが1人のために、1人がみんなのために」という意味ですね。
彼が目指したものはなんだったのか、たとえば家康ではなく彼が日本を統一したとしたら、どんな日本になっていただろう…。
そんな「もしも」の話を考えるのも、歴史の面白さのひとつかもしれません。
― 参考文献 ―
■Gakken.「歴史群像シリーズ特別編集 戦国極 ビジュアルファイル 戦国合戦イラスト&マップ集」■第一学習社.「新選日本史図表」
■ソフトバンク クリエイティブ(株).「采配のゆくえ 設定資料集」
■南原幹雄.「大谷刑部」.角川文庫
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ぐっどらんど、大垣市柿の木荘、大垣市立かわなみ作業所、養老鉄道(株)、垂井町観光協会の商品販売中!
養老鉄道イベント 系統板フェステ… 価格:5,000円 |
「養老鉄道×シナモロール」クリ… 価格:400円 |
「養老鉄道×シナモロール」1日… 価格:750円 |
YORO SEVEN CATS 結成1周… 価格:2,970円 |
ようてつ缶バッジ第2弾 第7回 価格:各400円 |
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ラビットカー・トコトコでんしゃ 価格:1,000円 |
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チョコチップクッキー 価格:100円 |
さをり織り ポシェット 価格:2,000円 |
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