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※掲載内容は本特集リリース時期(2010年8月20日更新)の情報です。内容が変更となる場合がありますので、事前に必ずお問合せください。あらかじめご了承ください。

西美濃歴史めぐり ―関ケ原合戦編― 第弐章

○本特集では、記事の見出しを東軍を青色・西軍を赤色として分類し、表記いたします

関ケ原の戦い 深夜〜早朝

◆徳川家康、桃配山に布陣 ――― 開戦前

徳川家康 臨時駐車場 ▲家康専用の駐車場?!…ではなく、陣跡の駐車場でした。 徳川家康の陣跡 徳川家康の陣跡
1600年9月15日早朝2時すぎ。

西軍の主力部隊が大垣城から関ケ原へ移動したとの報を受け、東軍もまた関ケ原への移動を始めました。
早朝6時には両軍とも関ケ原への布陣を完了、その際に徳川家康が陣を置いたのが、この桃配山です。
徳川家康 陣跡(桃配山)
関ケ原町の東端。国道21号線の「一ツ軒」の信号からと東へ200メートルほど走ると、道路脇にたくさんの「三葉葵」ののぼりが見えてきます。この階段を登った先が、徳川家康最初陣跡。
国道を挟んだ反対側に陣跡専用の駐車場が用意されているので、車で史跡めぐりをされる方も安心です(^^)
駐車場の立て札にはナント『徳川家康 臨時駐車場』の文字が!
もしやここ、家康しか利用できない駐車場!?と驚いてしまいました(笑)
階段をのぼってすぐのところに石碑と説明文があり、そこから関ケ原の景色を見ることができます。
約3万の大軍が布陣するにはチョット狭いのでは?!と思いましたが、国道が整備された際に山の形も変わっているのかもしれません。当時はもっともっと広い場所だったのでしょうね。

◆血気盛んな東軍の先鋒 福島正則

福島正則の陣跡1 ▲住宅街の中にある春日神社。駐車場もあります。 福島正則の陣跡2 ▲隣に、福島正則の陣跡がありました。 福島正則の陣跡3 ※クリックすると拡大します
午前8時前。
合戦の東軍先鋒を任されたのは、猛将・福島正則
「先鋒」とは、戦闘の際に部隊の先頭に立って進むことです。
これまでも多くの戦いで先鋒を務めてきた福島は、この「関ケ原」でも、先鋒を自ら買って出たと言います。
福島正則 陣跡
小さな案内板を頼りに、狭い道の先を覗くと、陣跡と専用駐車場を発見しました。住宅街の中にあるので、探すのに少し苦労するかもしれません。
福島正則の陣跡は春日神社の敷地内にあります。春日神社は、昼間でも厳かで神秘的な雰囲気の漂う場所でした。ここは別名「月見の宮」と呼ばれ、月見の名所言われる場所です。
どんな人? 福島正則●
石田三成と同じく豊臣秀吉に仕えた武将。
血気盛んで勇猛・敵と見れば真っ先に突っ込んでいく、絵に描いたような武道派人間。どちらかというとクールで堅物な印象の強い石田三成とは正反対の性格と言われています。
福島正則が戦場で剣をふるい戦う「武断派」の立場であったのでに対して、石田三成は「文治派」として戦場以外の内政を行う立場。同じ秀吉に仕える立場とはいえ、戦場に出てもいないのに秀吉の側で出世していく三成のことを、福島は昔から嫌っていたと言われています。
同じ理由から、多くの「武断派」の武将が、「関ケ原の戦い」の際に東軍側へと回ってしまいました。

◆目指せ一番乗り? 東軍の”赤い鬼” 井伊直政

井伊直政の陣跡1 ▲「赤備え」の井伊は、のぼり旗も赤色! 井伊直政の陣跡2
どんな人? 井伊直政●
兜や甲冑などの武具をすべて赤一色に統一した「赤備え」で知られていて、「井伊の赤鬼」と呼ばれた人物。幼いころから美男子で知られていたそうです。
彦根城のイメージキャラクター「ひこにゃん」は、この井伊家から由来して誕生したキャラクターなので、ひこにゃんもモチロン赤い兜を身につけていますよ!
東軍先鋒を任されていたのは福島正則
勇猛で血気盛んな福島は、真っ先に手柄を立てるべく勇むのですが、「いざ開戦」という場面で目の前に思わぬ人物が登場。
真っ赤な甲冑に身を包んだ、「井伊の赤鬼」こと井伊直政
福島と同じく、東軍の武将です。
やってくるはずのない突然の人物の登場に、福島は「先鋒を横取りするつもりか?!」と、井伊をめいっぱい警戒。
しかし、その福島を出し抜いて、井伊隊が前方の西軍に発砲!
そのまま関ケ原合戦が始まってしまいます。
井伊隊に抜け駆けされた福島正則は激怒、これ以上遅れを取ってはなるものかと一斉に西軍に突撃し、静かな関ケ原は一気に激戦地へと姿を変えました。
井伊直政 陣跡
戦没者を弔った「東首塚」の中にあります。
首塚がメインで、陣跡が隅っこ…のような配置になってしまっていますが、他の陣跡の説明看板よりも立派な看板があって、イラスト入りで説明を読むことができます。
ちなみに首塚の中には、家康によって実検された将士の首が眠っています。
敷地内には、討ち取った首の血や土を洗ったとされる「首洗いの古井戸」もあります。
説明の書いた看板を読みながら、なんだか怖くなってしまいました(@ @;)



◆容姿端麗・名門のプライド 西軍の主力 宇喜多秀家

宇喜多秀家の陣跡1 ▲宇喜多秀家の旗印。「児」の字から来ているそうです。 宇喜多秀家の陣跡2 ▲天満山の入り口、森の中。とても厳かな雰囲気です。 宇喜多秀家の陣跡3
東軍・井伊隊が発砲し、続いて福島隊が突撃した相手は、西軍の中央主力、宇喜多秀家の隊
福島隊は東軍主力の1つである部隊を率いていましたが、西軍の宇喜多隊もまた、中央主戦力の大軍勢。
兵力も多い上、力の強い勇将もいる宇喜多隊に、福島隊は想像以上に苦戦。一進一退の状況が続きます。
宇喜多秀家 陣跡
南天満山の森を少し歩いた所に、まず天満神社を発見、宇喜多秀家の陣跡はその神社の境内にありました。
ほどよく日が遮られる場所にあるので、この時期でも涼しく葉擦れの音がとても爽やか。
天満神社も厳かな雰囲気があって、容姿端麗であったとされる彼にふさわしく実に美しい場所です(^-^)
陣跡を写真に取ってみると、ちょうど斜め横から光が差し込んで、 まさに宇喜多秀家降臨状態に!(゚o゚ )
宇喜多秀家は個人的に好きな武将なので、きれいな写真が取れて大満足!(^-^)
いやいや、別に彼がイケメン武将だから好きというわけでは無いですヨ(^^;)
どんな人? 宇喜多秀家●
宇喜多秀家は、子供に恵まれなかった秀吉の「養子」として豊臣家に入りました。
秀吉にとても可愛がられて育ったせいか、「プライドの高いお坊ちゃま」な印象も…。
でも実際は、情に厚くて心の強い好青年であったそうです。この「関ケ原の戦い」でも、激戦の中央で一番奮闘しました。
ちなみに小早川秀秋が西軍を裏切ったときには激怒し、自分だけで秀秋の陣に切り込もうとした…と言われています。
同じ秀吉の養子であったという仲から、小早川の裏切りに対し誰よりも許せない気持ちがあったのかもしれません。

◆商人出身のキリシタン大名 小西行長

小西行長の陣跡
どんな人? 小西行長●
当時ではめずらしい「商人出身」の大名で、さらにキリシタン大名でもありました。
「関ケ原の戦い」での敗戦後は切腹を命じられたものの、キリスト教では自害を固く禁じられているため切腹することができず、三成らと共に京都で処刑されました。
午前8時。井伊隊の発砲と共に開戦した関ケ原の戦い。
戦いが始まったのを見た西軍・小西行長は、西軍全軍に開戦を伝える「のろし」を上げました。
その後、宇喜多隊と共に西軍の主力部隊として奮戦、中央戦線で福島隊らの猛攻に耐え、善戦します。
小西行長 陣跡
開戦地から徒歩1分、北天満山のふもとにあります。
開戦地あたりから小西陣跡には木が植えられていて、私がこの陣跡を訪れたときはちょうど桃色の花が満開!(^-^)
本当にきれいで、のどかな場所です。
周りを田園に囲まれているため見晴らしもよく、すぐ斜め前の島津隊の陣跡のあたりまでが良く見えます。

◆東軍一の功績者 黒田長政

黒田長政の陣跡1
▲陣跡は丸山烽火場にあります。幼なじみの竹中重門とともに布陣。 黒田長政の陣跡2
▲2人とも、父親は秀吉の軍師(竹中半兵衛と黒田如水)でした。こんな人たちに敵に回られてしまうと、三成も苦しいですね。 黒田長政の陣跡3
中央の戦線が激突したすぐ後。
笹尾山・石田三成本陣のすぐ目の前に布陣していた東軍の黒田長政、細川忠興などの武将の部隊も、攻撃を開始します。
この武将たちは、それぞれの理由で三成に恨みをもっていたため三成本陣のすぐ前面に配置されていました。
しかし三成本陣の前には、「鬼の左近」と称されるほどの西軍の勇将・島左近が布陣し、細川らの前に立ちふさがります。
黒田長政 陣跡
黒田長政・竹中重門の陣跡は、西軍本陣のすぐ左手・丸山烽火場にあります。開戦時、黒田・竹中隊が桃配山の家康に開戦を知らせるべく、この丸山でのろしを上げました。
丸山烽火場の様子は第壱章でも書きましたが、関ケ原のほとんどを見渡せるとても見晴らしの良い場所!(^-^) のろしを上げるには絶好の場所です。
さて、細川忠興の陣跡はなぜか関ケ原に残っていないようです…。細川氏と言えば東軍の主要な武将の一人であったはず。陣跡が残っていないのはなんだか不思議な気がしますね。
どんな人? 黒田長政●
武勇に優れた人物でありながら調略能力にも長けていて、小早川秀秋の寝返りを交渉したのは彼だと言われています。合戦中も黒田隊は凄まじい攻撃を見せ、「鬼の左近」に重傷を負わせることに成功、関ケ原の戦いで一番の功績を上げたと言われています。戦後は福岡藩初代藩主になるという大出世をしました。

◆泣く子も黙る薩摩の強豪 島津義弘

島津義弘の陣跡 島津義弘の陣跡
▲天狗でも出てきそうな雰囲気です。 島津義弘の石碑
▲島津氏の地元・鹿児島の方の寄付で建立された立派な石碑。
さて中央の戦線は、引き続き西軍の宇喜多隊、小西隊などが善戦。戦況は互角どころか、西軍優位の状況となりました。
「ここで一気に叩くことができれば、さらに戦況は優位になる」と判断した三成は、本陣近く中央に布陣している島津義弘に進軍を依頼します。
しかし、島津義弘はナントこれを拒否 !
もともとは「豊臣家への義理のため」に西軍に参加していた島津軍は、前面的に三成に協力しているわけではなかったのです。
西軍勝利のためというよりも「自分たち”島津”のために」戦っていた島津義弘は、戦況を見て「まだ進軍のときではない」として、三成の要請を断ってしまいます。
島津義弘 陣跡
島津義弘の陣跡は、神明神社のすぐ隣、小西陣跡等よりも小高い森の入り口にあります。
神社のそばにあるからか、周囲を背の高い木々で囲まれているからか、他の史跡とは少し違った雰囲気が…。
「泣く子も黙る鬼島津」の名にふさわしい、一種の威圧すら感じる陣跡に、思わず長時間居座って見学してしまいました(^^)
この石碑、実は島津氏の地元・鹿児島の方の寄付で建立されたもの。さすが、九州を代表する島津家!
他の陣跡とは少し違った厳かな雰囲気を感じることができる島津義弘陣跡、「関ケ原めぐり」の際はぜひルートの中に組み込んで、見てみてください(^-^)
どんな人? 島津義弘●
鎌倉時代から続く生粋の名門・九州「島津家」の大名。「島津家にとって義弘の存在は不可欠」とまで言われた、まさに鬼島津の名前がピッタリの人物。
戦上手として有名で、挙げた軍功の数は計り知れないほど。秀吉時代の朝鮮出兵の際も、家康に「前代未聞の大勝利」と絶賛されるほどの大勝利を収めたそうです。

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特集
Page 1
今回の史跡めぐりルート
合戦の足跡を追って、
  史跡めぐりスタート

Page 2
・徳川家康陣、桃配山に布陣
  ―― 開戦前
・血気盛んな東軍の先鋒
  福島正則
・目指せ一番乗り?
  東軍の”赤い鬼”井伊直政
・容姿端麗・名門のプライド
  西軍の主力・宇喜多秀家
・商人出身のキリシタン大名
  小西行長
・東軍一の功績者”黒田長政
・泣く子も黙る薩摩の強豪
  島津義弘
Page 3
徳川家康、進軍
  ―― 中央「陣場野」へ

三成と親交のあった
  東軍の武将 田中吉政

動かない…動けない?
  西の大勢力 毛利秀元

双方から誘われ…裏切りの
  貴公子(?)小早川秀秋

重病を押して出陣、友情に
  殉じた知将大谷吉継

東軍の策士暗躍
  藤堂高虎

壮絶すぎる撤退戦 島津の
  ”若き鬼”島津豊久

「大一大万大吉」の意味
  ― 石田三成が目指したもの



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