
大河ドラマにも登場 豊臣兄弟ゆかりの地 岐阜県西美濃
戦国の世を駆け抜け、日本史にその名を刻んだ兄弟 ― 豊臣秀吉と豊臣秀長。
現在放映中のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟」では、天下人へと成り上がる兄・秀吉と、それを陰で支え続けた弟・秀長の絆が、鮮やかに描かれています。
そんな二人の足跡、そして、二人の人生のキーポイントとなる武将たちの足跡が、実はここ岐阜県西美濃にも数多く残されています。
若き日の豊臣兄弟、運命を変えた出会い、そして重要な転機――その舞台となった地を歩けば、ドラマの世界がぐっと現実味を帯びて迫ってきます。
岐阜県西美濃地方の「豊臣兄弟ゆかりの地」をめぐりながら、戦国の足跡を探してみませんか。
墨俣一夜城 太閤出世の地 美濃攻めの拠点
まだ無名に近かった豊臣秀吉が、その才覚を一気に世に知らしめた「太閤出世の地」として知られる墨俣一夜城。
織田信長の命を受け、美濃攻略の足がかりとして築かれたこの城は「一夜で築いた」と伝わる逸話でも有名です。実際には周到な準備と巧みな工夫の積み重ねによるものですが、そのスピード感と発想力こそが、後の天下人へとつながる秀吉の真骨頂でした。
▲春には城を囲む犀川堤の約800本もの桜が咲き誇り、全長3.7kmにも及ぶ桜並木が訪れる人々を迎えます。満開の時期には、城と桜が織りなす美しいコントラストが広がり、夜にはライトアップも行われ、幻想的な夜桜の名所としても人気を集めています。
秋には、秀吉の立身出世の物語にちなんだ「すのまた秀吉出世まつり」が開催され、勇壮な武者行列や各種催しでかつての戦国の息吹を感じることができます。
大垣城 豊臣秀長も城主を務めた 西美濃支配の最重要拠点
「豊臣兄弟」を語るうえで見逃せない重要な舞台の一つである大垣城。濃尾平野の要衝に位置し、古くから交通と軍事の両面で戦略的価値を持ち「西美濃支配の最重要拠点」として歴史に名を刻んできました。
現在の大垣城は戦災で焼失後に再建されたものですが、全国的にも珍しい4層の天守を持ち「城下町・大垣」のシンボルとして市民に親しまれています。
▲豊臣秀吉死後、1600年に起きた関ケ原合戦においては石田三成率いる西軍の本拠地となり、天下分け目の戦いの前夜には多くの武将がこの城に集結しました。実際に合戦の舞台となる可能性もあった重要拠点であり、西軍の軍議や戦略が練られた場所として歴史に名を刻んでいます。
内部は資料館として整備されており、関ケ原合戦に関する史料や絵図、武将たちの連署文書のほか、甲冑や火縄銃、槍といった武具が展示されています。
秀吉の軍師 竹中半兵衛とゆかりの地
戦国時代を駆け抜けた知将の中でも、ひときわ静かな輝きを放つ存在、竹中半兵衛。
NHK大河ドラマでは俳優 菅田将暉さんが好演中の竹中半兵衛ですが、若くしてその才覚を発揮し、やがて豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)の軍師として名を馳せることになります。
半兵衛の生誕地とされる岐阜県大野町、そして居城のあった岐阜県垂井町には、今なお多くの史跡が残されています。
竹中半兵衛 生誕の地 岐阜県大野町
竹中半兵衛は、現在の岐阜県大野町に存在した大御堂城で生まれ育ちました。字絵図や発掘調査等により城の規模や土塁の痕跡などが明らかになり、現在、大野町の大御堂城跡には「竹中半兵衛 生誕の地」の碑が建てられています。
竹中氏陣屋跡
木造白壁塗りの楼門と、その前に建つ竹中半兵衛像が印象的な竹中氏陣屋跡。
この陣屋を構えたのは、戦国最強の軍師として名高い竹中半兵衛の嫡男、竹中重門(しげかど)。秀吉死後に起こる関ケ原の戦いには重門自身も参戦し、その功績により徳川家康から旗本として5,000石を安堵されています。
禅幢寺(ぜんどうじ) 竹中半兵衛の菩提寺
1579年、竹中半兵衛が播磨の三木の陣中で36歳の若さで病没した後、長男・重門が遺骸をこの地へと移し葬ったことから、以降 竹中氏一族の菩提寺としての歴史が刻まれている禅幢寺。
境内には半兵衛の墓があり、全国から戦国ファンが訪れています。
菩提山城跡 竹中半兵衛の居城
竹中半兵衛が居城(本拠)としたのが、菩提山城(現在の菩提山城跡)です。菩提山城は山頂を巧みに利用した典型的な山城で、戦略的に重要な位置に築かれていました。半兵衛はここから秀吉の軍事作戦を練り、多くの戦いで勝利に導いたと伝わります。
菩提山城跡からは周囲の山並みや関ケ原の平野が一望でき、ハイキングコースとして整備されているため登ることができます。
菁莪(せいが)記念館
竹中半兵衛の居城であった菩提山城や陣屋の復元予想模型、当時の資料、甲冑レプリカなど、記念館として約100点もの竹中氏ゆかりの品・資料が公開されています。
「菁莪(せいが)」とは、孔子の教えである儒教から来ている言葉で、現在でも地元・垂井町岩手小学校の校章にはこの「菁莪」の文字が使われています。
タルイピアセンター 竹中半兵衛の生涯を知る
図書館、歴史民俗資料館、歴史文献センターで構成される複合文化施設タルイピアセンターには、竹中半兵衛の紹介コーナーである『竹中半兵衛一代記』が常設展示されています。
竹中家の陣屋門に内蔵されたマジックビジョンに天下を統一し終えた秀吉が登場し、半兵衛の生涯をわかりやすく語ります。
垂井町観光案内所 竹中半兵衛 観光情報とお土産、グッズ
垂井駅北口に位置する「垂井町観光案内所」では、竹中半兵衛ゆかりの場所を巡る各種パンフレットや、観光に役立つ情報を取りそろえています。
半兵衛グッズも購入できます。
西美濃ショッピング 竹中半兵衛グッズを通販で購入可能
垂井町観光協会公式グッズ、竹中半兵衛グッズが通販で購入できます。
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五明稲荷 秀吉の軍師 黒田官兵衛ゆかりの地
豊臣秀吉を支えたもう一人の軍師、黒田官兵衛。
三木城攻めの際、反旗を翻した有岡城を説得しに向かった官兵衛は、そのまま有岡城に幽閉されてしまいます。
連絡の途絶えた官兵衛に対し「自分を裏切った」と誤解した織田信長は、官兵衛の息子・松寿丸の処刑を秀吉に命じますが、秀吉の軍師であった竹中半兵衛は官兵衛の無実を信じ、密かに長政を救う決断をします。
このとき、官兵衛の息子・松寿丸が匿われたのがこの五明稲荷神社です。
静かな田園風景の中にひっそりとたたずむ五明稲荷神社の境内には、後に名将として名を馳せる黒田長政(幼名・松寿丸)が手植えしたと伝わる銀杏の木があります。
秀吉が重用した知将 石田三成と関ケ原合戦
豊臣秀吉、豊臣政権を支えた代表的な文治派の武将として知られる石田三成。
現在の滋賀県に生まれ、若くして豊臣秀吉に見出された三成は、その才覚と実務能力によって頭角を現します。武功によって名を上げる武将が多い中で、三成は卓越した行政手腕によって信任を得た点に大きな特徴がありました。
秀吉による天下統一が進むと、三成は奉行として中央政務に深く関与するようになりますが、1598年、秀吉の死によってその均衡は大きく崩れ、次第に影響力を強めていく徳川家康と対立を深めていきます。
政治的緊張が高まる中で、豊臣政権の主導権をめぐる対立は決定的となり、ついに全国規模の戦乱…関ケ原合戦へと発展していきます。
笹尾山 石田三成陣跡
▲関ケ原合戦の際、石田三成が布陣した笹尾山。現在の笹尾山は緑豊かな史跡として整備されており、麓には馬防柵、山頂には三成の陣跡を示す石碑や旗印が再現されています。
5〜10分程度で登ることができ、その山頂に立てば三成がどのような視点で戦場を見渡していたのかを実感することができます。
決戦地
▲石田三成が布陣した笹尾山からおよそ徒歩3〜5分前後の距離にある決戦地跡。関ケ原合戦の際、東軍諸隊が三成の首級を狙って詰めかけ、最大級の激戦が繰り広げられた場所といわれています。
現在の決戦地には大きな石碑と、徳川家・石田家の大幟旗が立てられています。
岡山(丸山)烽火場 二人の軍師の子らは共に関ケ原の大戦へ
天下人へと駆け上がった豊臣秀吉を陰で支えた二人の軍師、黒田官兵衛と竹中半兵衛。
その才覚を受け継ぐ官兵衛の子、黒田長政。そして半兵衛の子、竹中重門。軍師の子らは、秀吉の死後に起きる天下分け目の戦 関ケ原合戦において、共に徳川方として関ケ原町北部「岡山(丸山)」に布陣しました。
合戦時、戦機を見て開戦の烽火(のろし)を上げた場所であり、岡山烽火場と呼ばれています。山頂からは南宮山・松尾山・笹尾山・中山道・北国街道・伊勢街道といった重要なポイントを一望することができ、烽火(のろし)を上げるには好適地だったことがわかります。
▲関ケ原合戦が起きた日である9月15日には毎年、関ケ原合戦の開戦を再現するイベントの一環として、午前8時に町内に鳴り響く法螺貝の音と共に、ここ岡山(丸山)烽火場にてのろしが上げられます。
町民有志で地域おこしに励む皆様により、合戦当時の関ケ原を味わうことができる伝統のイベントが、今も続けられています。
徳川家康と関ケ原合戦
豊臣秀吉の五大老の筆頭として政権を支えていた徳川家康。しかし秀吉の死後、豊臣家中の主導権争いが激化する中で家康は徐々に勢力を拡大していきます。
豊臣政権の奉行として実務を担っていた石田三成との対立が強まると、両者は関ケ原で激突しました。
家康の台頭は、単なる一武将の勝利ではなく、豊臣政権という巨大な枠組みが内側から崩れていく過程と深く結びついているのです。
桃配山・徳川家康最初陣跡
▲関ケ原合戦において、東軍を率いた徳川家康が最初に陣を構えた桃配山。標高こそ高くないものの関ケ原一帯を見渡すことができる要衝であり、家康がここを最初の本陣に選んだのは戦況を的確に把握するためでした。
その後、戦況が芳しくないことを知ると家康は、より前線に近い場所へ本陣を移すことになります。
徳川家康最後陣跡
▲関ケ原合戦当日、初めは前述の桃配山に陣を置いた家康でしたが、石田方の予想外の奮闘で前線の自軍が苦戦してることに苛立ち、本陣を桃配山からまさに関ケ原の中央部、三成本陣である笹尾山のすぐ近くまで進めました。
これにより徳川方として戦っていた隊の士気は上がり、また戦のキーマンであった小早川秀秋の軍勢も徳川方として動いたことで、関ケ原合戦は徳川方の勝利に終わりました。
岐阜関ケ原古戦場記念館 五感で体験する関ケ原合戦
関ケ原合戦の東西陣営を俯瞰できる巨大な床面のスクリーン「グラウンド・ビジョン」。そして、そこから続く「シアター」では両軍の激突を、まるで戦場の真ん中に入り込んだかのような視点での映像、音、振動、風…自分の五感で体感することができます。
2階の展示室では戦国時代の武具や史料、書状などが展示、戦国体験コーナーでは武具を実際に触ったり、写真撮影などもできます。
最上階の展望室からは関ケ原古戦場全体を見渡し、各陣で戦った武将たちに思いを馳せることができます。
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