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※掲載内容は本特集リリース時期(2013年12月12日更新)の情報です。内容が変更となる場合がありますので、事前に必ずお問合せください。あらかじめご了承ください。

大河ドラマ「軍師 官兵衛」が面白くなる!美濃の武将 竹中半兵衛 特集

大河ドラマにも登場 黒田官兵衛の盟友、竹中半兵衛

 2014年1月からスタートする大河ドラマの主役は、稀代の天才軍師、黒田官兵衛。
のちの天下人、豊臣秀吉の軍師として活躍した武将です。
その黒田官兵衛を語る上で外すことができない重要な人物が、この岐阜県西美濃にいました。
その人物の名前は、竹中重治。通称、竹中半兵衛。
 黒田官兵衛とともに羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉) の「天下取り」を影で支えた、戦国時代を代表する軍師です。華奢で繊細、「まるで女性のよう」と記されるほど、戦乱の武士としては頼りなげな体格でありながら、冷静沈着で大変智謀にすぐれ、人々からは「昔楠、今竹中(優れた軍師と言えば昔は楠正成だったが、今は竹中半兵衛だ)」と称されるほどでした。
 黒田官兵衛と竹中半兵衛、この2人がいなかったら秀吉の天下統一は危うかったと言われています。2人はライバルであり、また、互いに認め合った盟友でもありました。

 今回の特集では、西美濃が誇る戦国の軍師・竹中半兵衛の足跡を追いながら、半兵衛ゆかりのスポットをご紹介します。

竹中半兵衛は岐阜県・西美濃の武将!

 竹中半兵衛は、現在の岐阜県大野町に存在した大御堂城で生まれ育ったと言われています。
 大野町には「竹中半兵衛 生誕の地」の碑が建っています。

竹中半兵衛が育った地 大野町

●竹中半兵衛 生誕の地 大御堂城 跡

▲竹中半兵衛は、1544年、岐阜県揖斐郡大野町の大御堂城の城主であった竹中重元の子として生まれました。本名は重治、通称は半兵衛と称します。
 半兵衛の生誕地といわれる大御堂城は、現在はそのほとんどが土地改良事業により改変され、遺構がはっきりしません。城内の一画とされる場所には、竹中氏ゆかりの八幡神社があります。
大御堂城跡
  • 揖斐郡大野町公郷2103-1地図
  • 大野町役場
  • 0585-34-1111

●竹中半兵衛 生誕の石碑

▲岐阜県大野町、八幡神社の一角に竹中半兵衛の生誕の地の石碑が建っています。田園と集落に囲まれた、のどかな場所です。
生誕の石碑
  • 揖斐郡大野町公郷2103-1 八幡神社内地図
  • 大野町役場
  • 0585-34-1111

竹中氏、垂井町に菩提山城を築く

●竹中家の居城 菩提山城跡(岩手城跡)

▲垂井町の指定史跡、菩提山城跡。
 1559年、半兵衛と半兵衛の父、重元は岐阜県垂井町岩手の菩提山に城を築き、以後ここを居城としました。
 山城は標高402メートルの山頂に、およそ南北260メートル、東西最大幅60メートルの広大な天嶮を利用しており、堅固なつくりと巧妙さは、類を見ない規模になっています。
 現在、建造物は残っていないものの、遺構として、土塁・堀切・郭跡などが見られます。
 本丸跡からの眺めもよく、5月には全長約10メートルもの大幟も設置され、ますます迫力ある姿になりました。
 この菩提山城跡は「日本の名城 都道府県別ベスト10」で、岐阜県の8位にランクインしています。
菩提山城跡
  • 不破郡垂井町岩手菩提地図
  • 垂井町観光協会
  • 0584-22-1151
  • 菩提山城ハイキングコースが整備されています。
    頂上まで約60分

竹中半兵衛ってどんな武将?

信長、秀吉に注目された頭脳の持ち主

●岐阜城(稲葉山城)をわずか1日で乗っ取った半兵衛

 幼いころから身体が弱く痩身であり、『その容貌、婦人の如し』と記録に残る半兵衛。
 学問を好み、兵書を学び、おとなしく無口。身体つきも弱そうで、乱世に生きる武士としては頼りなさそうに見られていた半兵衛は、仕えていた主君・斎藤龍興やその家臣たちから軽んじられ、侮辱を受けることもあったと言われます。
 半兵衛の主君・稲葉山城(岐阜城)の斎藤龍興は、織田信長から何度も攻め込まれるという不安な状況にあっても、政務を顧みずに遊び放題。信長の侵攻があるたび半兵衛の知略により切り抜けるものの、城の士気は下がる一方でした。そんな主君の姿を憂えた半兵衛は一計をめぐらせ、1564年、たった16〜17人の部下とともに主君の居城・稲葉山城(岐阜城)をわずか1日で乗っ取ってしまいます。
 難関不落と言われた稲葉山城をわずかの兵を奪取した半兵衛は、名実ともに稲葉山城主となり、『美濃に半兵衛あり』とその名を全国に轟かせました。
 これを知った織田信長は、「美濃半国を与えるから城を譲ってくれ」と半兵衛に申し入れますが、半兵衛は「わたしは、主君の行動を諫めるために決行しただけであり、主君が反省すれば、城は本人に返すつもりだ」と拒絶しました。
 野心のまったく無いこの発言は、戦国の世にあって人の意表を突く言葉でした。

 同じ年の夏、その言葉どおり城を龍興に返した半兵衛は、斎藤家をはなれ、故郷の垂井町に隠棲してしまいます。

半兵衛、岐阜県垂井町に隠棲 秀吉に三顧の礼で迎えられる


▲半兵衛を説得する藤吉郎(秀吉)【菁莪記念館 蔵】
 先の件より半兵衛の頭脳に目をつけていた信長は、隠棲していた半兵衛を家臣にしたいと考え、木下藤吉郎(豊臣秀吉)に半兵衛を説得するよう命じます。
 藤吉郎は、「三顧の礼」を尽くして半兵衛を説得したと言われ、このとき、藤吉郎の中に天性の才能と将来性を見た半兵衛は、「信長にではなく、あなたになら」と、のちの豊臣秀吉への仕官を決めました。

竹中半兵衛の名軍師ぶりが見えるエピソード

あまり良い馬には乗らなくてもいい?

 「お金10両で馬を買おうとした場合、その半分の5両の馬を買うべきだ。」と半兵衛が秀吉に諭したという逸話があります。自分の身に余る馬を買うと、戦場でいざというときに、馬が惜しくてとっさに行動できないからだというわけです。
 「こんな名馬はもう手に入らないかも」という思いが先に立つと、いざというときに馬を飛び降りて敵を追うこともできない。そうすると勝機をのがしてしまう。
 だから、武士は惜しげもなく5両の馬を乗り回し、戦いの好機には捨てるのがいい。そして、残った5両でまた馬を買えば良い。と半兵衛は言いました。
 なるほど、これは馬だけではなく、他のことにも当てはまりそうですね。

有事の際のために、常日頃から手先を温めておく半兵衛

 半兵衛は時々、手や足をブラブラと動かすクセがあったと言います。
 他の武将や客人の前でも治そうとはしないため、それを見とがめたとある武将が「無礼ではないか」と怒りましたが、半兵衛は平然と、
 「これは、いつ敵に襲われてもすぐに身動きが取れるように備えているのです。いざという瞬間に手足がしびれて行動が遅れれば、それだけで一大事になりますので」。
 ときは戦国の世。「いつ敵に襲われてもすぐに身動きがとれるように」は大げさではなく、実際にいつ誰に攻め込まれてもおかしくは無い時代でした。怒っていた武将も、「さすがは半兵衛どの、武士はこうあるべきだ」と納得し、感心したという逸話です。

盟友? ライバル? 竹中半兵衛と黒田官兵衛

官兵衛の息子・松寿丸の命を救った半兵衛

 秀吉の軍師として活躍することになった半兵衛は、秀吉の中国地方攻めの折、黒田官兵衛と知り合います。半兵衛は、官兵衛が並みの人物ではないことにすぐに気が付きました。また、官兵衛のほうもそうであったようです。
 やがて2人は忌憚なく話せる友となり、互いに車の両輪となって秀吉を支え、協力し合います。

 ところが、播磨(現在の兵庫県)の三木城攻めの際、信長側についていたはずの有岡城の荒木村重が反旗を翻します。
 官兵衛は、村重を説得するためにたった1人で有岡城に乗り込み、そしてそのまま捕まり、幽閉されてしまいます。

●五明稲荷神社(垂井町)

▲黒田官兵衛の息子・松寿丸が匿われていた地に立つ、五明神社。
このイチョウの樹は、松寿丸お手植えのイチョウと言われています。
 連絡が途絶えたまま戻ってこない官兵衛に、信長は「官兵衛は裏切ったのだ」と激怒。官兵衛の息子・松寿丸を殺せと秀吉に命じます。
 困りはてた秀吉は半兵衛に相談、半兵衛は「自分にお任せください」と言い、松寿丸を殺したと偽って、密かに自分の居城から近い五明で匿っていました。
 もちろん、このことが信長に知れれば半兵衛も命が危ない、主君に背く危険な行動でした。しかし半兵衛は官兵衛が裏切るとは思えず、彼を信じていたのです。
 一年後、官兵衛は幽閉されていた有岡城から救助されます。
 てっきり殺されてしまったと思っていた息子の松寿丸は、しかし半兵衛の措置によって生きていました。
 官兵衛の喜びと感謝は、計り知れなかったはずです。

 しかし、息子の命を救ってくれた半兵衛に、官兵衛が感謝を伝えることはできませんでした。
 このとき、半兵衛は既に肺病のため、36年の短い一生を終えてしまっていたのです。
 官兵衛は、半兵衛のこの措置を知ると涙を流して、偉大な友の死を悼みました。
五明稲荷神社
  • 不破郡垂井町岩手2290地図
  • 垂井町観光協会
  • 0584-22-1151



西美濃に残る竹中半兵衛の足跡

竹中半兵衛 陣屋跡

●竹中半兵衛像と、陣屋の門に注目

▲半兵衛の息子で、関ケ原の戦いにも参戦した竹中重門が築いた陣屋跡。現存する木造白壁塗りの楼門、頑丈な門扉、石垣、濠などが当時の面影をとどめています。
竹中半兵衛 陣屋跡
  • 不破郡垂井町岩手619-2地図
  • 無料
  • 垂井町観光協会
  • 0584-22-1151

禅幢寺(ぜんどうじ) ― 竹中半兵衛の菩提寺(ぼだいじ)

●禅幢寺と竹中半兵衛の墓


▲1579年、半兵衛の息子・重門が、陣屋から近いここ禅幢寺に半兵衛の墓を移し、菩提を弔いました。
毎年6月には半兵衛公の法要が行われ、その際に町指定文化財である「竹中半兵衛重治像(肖像画)を見ることができます。

●竹中半兵衛の墓

▲半兵衛公のお墓へは、禅幢寺の奥から直接行くことができます。

●参拝記念グッズ

▲ここ禅幢寺でしか買うことのできない、参拝記念グッズ『半兵衛さんの知恵てぬぐい』。以前、テレビ番組でも紹介されました!
禅幢寺
  • 不破郡垂井町岩手1038-1地図
  • 無料
  • 垂井町観光協会
  • 0584-22-1151
  • 毎年6月に半兵衛公の法要あり

菁莪記念館(せいがきねんかん)

●竹中氏ゆかりの品を多く展示


 江戸時代、旗本竹中氏が建てた道場で、明治時代以降も学校として使われていました。
 現在は、記念館として約100点もの竹中氏ゆかりの品・資料を公開。
 菩提山城や陣屋の復元予想模型、当時の資料、甲冑レプリカなどが展示されています。
 「菁莪(せいが)」とは、孔子の教えである儒教から来ている言葉で、現在でも地元・岩手小学校の校章にはこの「菁莪」の文字が使われています。
▲記念館の中の様子。約100点もの展示があります。半兵衛ファンなら一度は見ておきたい記念館です。
▲竹中陣屋の復元模型図。
菁莪記念館
  • 不破郡垂井町岩手608-8地図
  • 無料
  • 水〜土曜日:14時〜17時、日曜日:8時〜17時
  • 月曜日・火曜日
  • 垂井町岩手公民館
  • 0584-22-1007

地元発! 竹中半兵衛ゆかりの商品&グッズ

官兵衛と半兵衛のコラボ! 姫路市と垂井町の合作パン『二兵衛』

▲ともに秀吉を支え、「二兵衛」と称えられた黒田官兵衛と竹中半兵衛にちなみ、官兵衛の故郷・姫路市の「甘音屋」と、半兵衛ゆかりの地・垂井町の「グルマン」との本格コラボで生まれた、絆のあんぱん『二兵衛』。
 パン生地は国産小麦100%で、水の代わりに岐阜県奥美濃のジャージー牛乳を使用。
 あんぱんの原料の命と言える「米麹」もグルマン自家製!なんと、「二兵衛」にちなんで岐阜県産の「はつしも」と兵庫県播磨地区産「こしひかり」のブレンドで作られています。
 姫路市「甘音屋」特製の粒あんは、和菓子屋さんならではの製法でみずみずしくアッサリとした味わい。
 歴史ファンはもちろんのこと、そうでない人も一度は食べておきたいあんぱんですね。
 なお、あんぱんに続く商品の発売計画もあるとのこと、今後もこのコラボから目が離せません(^-^)!
GURUMAN VITAL(グルマン・ヴィタル)
  • 不破郡垂井町宮代441地図
  • 0584-22-0606
  • 8時〜19時
  • 火曜日
  • http://www.guruman.co.jp/
  • 商品はグルマン店頭ほか、グルマンホームページから通販でも購入することができます。また、来年2月からは名古屋市のジェイアール高島屋でも販売予定。

半兵衛の里、垂井町にて半兵衛グッズを販売中!

 軍師 竹中半兵衛重治公をモチーフにした、Tシャツ・ポロシャツ・タオルが出来ました!
 来年の大河ドラマ「軍師官兵衛」の盛り上げに期待できる商品です。
 みなさんも一緒に半兵衛公をPRしましょう♪(^-^)
 垂井町観光協会事務局(役場産業課内)、または垂井町観光案内所(JR垂井駅北口前)で販売中です。
垂井町観光協会
垂井町観光案内所

コラム

「陣屋」って何?「交代寄合」って何?

 竹中半兵衛重治の息子、重門は関ケ原の戦いのとき、はじめ西軍側につきました。しかし井伊直政の仲立ちで東軍に鞍替えし菩提山城を家康に差し出します。重門は伊吹山中で小西行長を捉える功績も挙げ、戦後、知行地として不破郡岩手5000石を安堵されます。しかしこの禄高では大名とは言えず、彼が天正16年(1588)に菩提山の南に築いた城は陣屋ということになりました。いま濠と櫓門が残る遺構が竹中陣屋と呼ばれるゆえんです。陣屋は基本的に領主の居所と政庁からなり、天守のたぐいを持ちませんでした。ただ同じく陣屋と言っても、高山陣屋の場合は、これとは違い、天領、すなわち幕府直轄領であった飛騨国の政庁です。でもここにその地を取りしきる郡代がいたのですから、内容的には似ていると言えるかも知れません。

 しかし竹中半兵衛の家系ということもあって、竹中家は交代寄合という家格に定められました。つまり無役の旗本であるものの、江戸城では大名に準じる扱いを受ける立場になったのです。一般の旗本は若年寄の掛りでしたが、交代寄合は格が上の老中支配で、参勤交代も大名並みに勤めました。この近くでは大垣市上石津の西高木家2300石も交代寄合でした。いま上石津郷土資料館が建つ丘がその陣屋跡で、堅固な石積みで固めた高台の奥に幕末に現在の位置に移築された長屋門の遺構を見ることが出来ます。そこから一段下がって陣屋があった、ともに1000石の東高木家、北高木家もまた交代寄合であり、三家まとめて美濃衆と呼ばれていました。竹中家は関ケ原自体を、また高木三家はその南にあって伊勢街道を抑える、それぞれ戦略上、重要なポイントに配されていました。竹中家は表御礼衆といって、表御殿で将軍に拝謁出来る交代寄合20家のうちに入っており、この点では美濃衆より格が上だったようです。交代寄合は幕末には全国で33家ありました。

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特集
Page 1
・大河ドラマにも登場 黒田官兵衛の盟友、竹中半兵衛
・竹中半兵衛は岐阜県・西美濃の武将!
・竹中半兵衛ってどんな武将?
・竹中半兵衛の名軍師ぶりが見えるエピソード

・盟友? ライバル? 竹中半兵衛と黒田官兵衛
・西美濃に残る竹中半兵衛の足跡
・地元発!竹中半兵衛ゆかりの商品&グッズ
・コラム
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