「小原鉄心、名は寛、字は栗卿、通称仁兵衛。大垣侯戸田氏の世臣である。鉄心は天保十三年より一藩の政務を執り大に治績を挙げた。鉄心は実務の才に富むのみならず文学の造詣も亦浅からず、執務の旁暇あれば詩人墨客を招いて詩を唱和し酒豪を以て自ら誇りとなした。詩文を斉藤拙堂に禅を雪爪禅師に学んだ。其の書斎を鉄心居と名づけたのは梅花を愛する所より唐の宋広平が鉄心石腸の語を取ったのであると云ふ。明治五年四月享年五十四歳を以て歿したので、嘉永五年には年三十四である。」
この簡にして要を得た鉄心の紹介文を書いたのが文豪永井荷風であると言うと驚かれる方があるかも知れない。荷風は森鴎外を尊敬していて、とりわけ『伊沢蘭軒』のような史伝に感銘を受けていた。そこで自らもそれを試みんとして、ともに親戚筋で下谷(したや)の住人であった鷲津毅堂と大沼枕山(ちんざん)の二人を柱にまとめたのが『下谷叢話』であり、毅堂と鉄心は親しかったし、枕山は梁川星巌の玉池吟社に加わっていたから、鉄心と星巌がこの作品に登場するのである。荷風はこの執筆にあたって、関係する資料を細かくあたっており、鉄心が菱田海鴎や野村藤陰らと江戸を往復したときの日録である『亦奇録(えっきろく)』も入手して読んだことが日記『断腸亭日乗』で分る。すなわち大正12年9月6日の条に、「疲労して家を出る力なし。横臥して小原鉄心の亦奇録を読む。」とある。麻布に在った自邸「偏奇館」は大震災に無事だったが、親戚関係などの安否確認の外出続きに疲労困憊だったのである。
荷風はさらに鉄心の詩を集めた『鉄心遺稿』も調べていて、冒頭に引いた一節は、その引用に際してのものである。荷風は書く。「十一月に入って冬至の節に、大垣侯戸田氏正の家老小原鉄心が溜池の邸舎に詩筵を開いた。戸田氏の邸は今日の赤坂榎坂町に在った。」『遺稿』を披くと、大槻磐渓、大沼枕山ら12名が來集、「コノ日、歓甚シク痛飲シ兵ヲ談ズ」とある。ただし荷風は嘉永6年冬至節の同様な詩筵と5年のものとを取違えており、これは6年の詩筵の様子である。荷風がいう6年の詩筵、すなわち本当は5年のそれは来集者8名で、「招かれた賓客の中に毅堂湖山枕山も加わってゐた。」毅堂は招かれて尾張に帰るまえ、嘉永6年にすでに江戸を離れ、上総(かずさ)の君津に居た筈で、そのことからもこちらが5年の会のことと分る。『亦奇録』の記載によれば、湖山、すなわち横山湖山の息子はのちに尾張に戻った毅堂宅に住込みで師事したようだ。ところで一陽来復の冬至の日に詩筵を催すというのは、中国にもとくに例となるものが無く、鉄心の発案にかかるものか。とりあえず荷風はこの『下谷叢話』の出来に満足して、死んだあと、これと『墨東綺譚』が残ればいいと言ったそうである。
2011.1.17