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第十一番札所 萬松山 瑞巌寺

第十一番札所 萬松山 瑞巌寺

寺院紹介

 西美濃三十三霊場第十一札場である、瑞巌寺(ずいがんじ)は、岐阜県揖斐川町にある臨済宗妙心寺派の寺院。周囲は水田にして参道が始まる 庭園の形を造り迂回して山門に着く。中程に老杉が立ち、開山杉と名付け、下は茶木の生け垣である。山門は土塀を持ち、正面に本堂、客殿、庫裏と続く。老木の茂る丘には白く土蔵が眩しく、本堂前は花の咲く庭園である。

お寺の御朱印 お寺の写真 お寺の写真

基本情報

宗派 臨済宗
本尊 地蔵菩薩(聖観音)
創建 建武3年(1336年)
開祖 大林善育大和尚
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歴史

 天平年間(西暦730年頃)行基菩薩が諸国巡錫のおり、この地に霊異を感じ、一堂を建立し地蔵菩薩を安置したのが、ここに仏縁が結ばれた初めであると伝えられている。正和(1312年)の頃、この地方の武家勢力を統率した美濃の守護土岐頼貞が禅宗に帰依し、以後この地方に禅宗が興隆した。その子土岐頼清は、小島城を築き、平時は現在の瑞岩寺地区に住居を定め、暮らした。頼清の子頼康の時代になると、美濃、尾張、伊勢3カ国の守護を兼任し、土岐一族は全盛を極めた。建武三年(1336年)、その子、土岐頼康が、父頼清の菩提を弔うために、この地に一寺を建立したのが、現在の瑞巌寺の始まりです。この年、伊予の領地にいた頼清は、九州から軍勢を率いて上京する足利尊氏軍に加勢し、湊川の戦で勝利した後、摂津芥川で戦病死した。ちなみに、頼清の戒名は瑞巌寺殿祥雲善孝大禅定門。頼康は、瑞巌寺創建にあたり、常日頃、父頼清の尊崇していた地蔵菩薩を仏殿の本尊として祀った。開山には、鎌倉の浄智寺において無象和尚の指導を受け、日本禅宗24流法海派の法を嗣いだ、大林善育大和尚を招いた。和尚は、頼清の葬儀を行い、瑞巌寺の住持となった。なお和尚は、当山のほか、建仁寺第36代住持、南禅寺第27代住持などを歴任の後瑞巌寺で示寂し、勅諡僧海禅師を賜った。文和2年(1353年)6月、北朝の後光厳天皇が都の兵乱を避けて当寺小島頓宮に入り、8月まで滞在された。その縁で、翌々年、瑞巌報国禅寺の勅額を賜った。また、将軍義詮より寺領の寄附を受けた。頼康は感激新たに諸堂を造営し、皇運長久、国家安穏を祈祷した。ここに至り勅願道場として、おおいに興隆することになった。当時、塔頭は栗棘庵など10ヵ寺を数えた。その後、永徳2年(1382年)後円融天皇より綸旨を賜った。明徳元年(1390年)足利義満より美濃・尾張の土地、地頭職、領家職を安堵された。また、後小松天皇より紫衣を賜り、代々紫衣着用を許された。応仁2年(1468年)戦災により諸堂焼失し、寺僧18人が焼死した。その後、百姓をこの地に入れ、焼け跡を開墾させたと伝えられている。慶長17年(1612年)大垣城主石川主殿守は、当寺を大修理し、都より愚堂国師を請じて住持とし、禅風を興した。寛永元年(1624年)大垣城主岡部長盛は、諸堂を再興し、空山玄東大和尚を請じて、自ら参禅した。その後、空山一派この地に広がり、郡内に7ヵ寺、丹波に10ヶ寺を数えた。寛永12年(1635年)戸田氏鉄が大垣城主となってからも、旧大垣城主の菩提寺として庇護を受け、現在寺には戸田氏歴代の黒印状が保管されている。

交通アクセス

【アクセス情報】
住所  : 岐阜県揖斐郡揖斐川町瑞岩寺192
連絡先 : 0585-22-1553
アクセス:
  • 近鉄揖斐線 揖斐駅下車,バスで新丁下車徒歩で8分