巡行の行列において先頭を勤める
三輌やまの一つ。
神楽やまは、今までに炎災による三度の焼失を経験していて、現在に伝わる人形は1948年に作られたもの。
やま及び付属品は、1949年に三町から四万円ずつ出し合って造られた四代目。
三輌やまの一つ。神楽やまと恵比須やまと同じくらいの大きさ。
創建当時より何度も災害にあっていて、その都度職人の手によって蘇ってきたやま。
創建時は左甚五郎氏。現在は滋賀県米原市丹生の谷口喜蔵氏の作。
やや小型の棚草に置き人形が載る飾りやま。
お頭については霊異譚があるが、1962年に無事塗り替えられ、白いお顔に戻っている。
三輌やまのうち大垣空襲で焼失しなかったのはこのやまのみ。
1920年に解体修理。口からお頭内部を覗くと修理した人の人名の墨書が確認できる。
謡曲「高砂」を題材にしたところから、「高砂やま」とも呼ばれる。
そして朱塗りのため、「朱のやま」ともいわれるやま。
1887年に吉岡座からの出火で神楽やまと共に焼失、ほどなく1892年に再建。
しかしその後、新調・補修などをするも大垣空襲にて再び焼失。
1996になって漸く再建されたのがこのやまとなる。
古来謡曲「加茂」にちなんだやま。
離れからくりを披露するのは、この布袋やまのみ。
明治初年の神仏分離の影響により、布袋やまの名称が変更されてできたのが旭やま。
濃尾大震災や空襲により焼失したが、その都度再建された。
現在の布袋やまは、2011年に焼失前の古写真をもとに、姿が似ているとされる菅原やまをも参考にして制作された。
別名「天神やま」。
このやまの見送り幕には、大垣市出身の大橋翠石[おおはしすいせき]画伯による虎が描かれている。
1914年に再建。
1916年の祭礼では白木のままで曳かれたが、1924年に桑名の塗師によって漆が塗られた。
昔から鯰押えのからくり芸で一貫して通している歴史あるやま。
鯰やまは1758年に焼失。それに伴い、魚屋町の道外坊が一両年祭礼を勤めた時期がある。
濃尾震災や大垣空襲による被害を免れ、今日に伝えられている貴重なやま。
江戸時代当時は朝鮮やまと称していたと伝えられるやま。
朝鮮人行列。風流は「大将官」「大職冠」と呼ぶ正使の人形を載せた曳き物を中心に、異国風の装束に異国風の楽器をもった人々が続く行列。
この行列にはいろいろな呼び方がある。
朝鮮人行列は明治時代に神仏分離令など明治政府の施策によって廃止となり、替わって1870年から榊やまが新造され現在にいたる。
複数回の大改造、大修理を経て、近代に立派に造りかえられたやま。
浦嶋やまは1945年に大垣空襲にて焼失。
以来俵町はやまのない町となっていたが、2011年に焼失前の古写真を参考にしながら再建。2012年に曳き回された。
このやまの名称は、海幸山幸の伝説をもとにした能「玉の井」からきている。
当初は石曳やまと呼ばれていたやま。
1815年の大洪水で大破したため、芸やまに改造し、子ども歌舞伎を演じるようになり、戦後は少女の踊りを上演するようになった。
琵琶湖の景勝地である竹生島の弁財天を首座に配することで、別名「弁天やま」とも呼ばれている。
からくり人形と舞踊を併用した唯一のやま。
大垣空襲により焼失し、その後青年団の有志で荷馬車の台車をやまに仕立てて巡行に供した。
月日を重ねるごとに、白木の舞台付芸やまの購入、塗装、金具などの飾り付けを整えていき、現在の姿となった。
やまの中で一番長いやま。
当初はやまに愛宕の小祠をのせていたといわれている。
1812年の大火災、1891年の濃尾震災などの災難を逃れたたやま。
しかしその後、大垣空襲では神功皇后の頭などが焼失した。この時やま本体などは無事だった。
名称は謡曲「猩々」からきている。
以前は前方左右に輪があり、10メートルほどの縄をつけて子どもが曳いていた。
このやまは二度にわたり災害にみまわれ焼失。
1945年、戦災で惜しくも焼失した先代の猩々やまが、2001年に56年ぶりに白木で復元され、以降、漆塗り・金具・彫刻が施された。
八幡宮の改築が行われた際に城下十ヶ町はやまを建造した。その時に新町は小船山を建造したことが記録に残っている。
その後、1798年の「八幡宮御祭礼行列帳」には船やまの記載があった。
この船やまは三つの車輪を用いて曳き、浄瑠璃によって舞踊が演じられたというが、1891年の濃尾震災により焼失。
その後1916年に菅原やまが建造された。
神幸に当たり、神体を奉安する輿を神輿という。
基本的な構造としては屋根・胴・台輪から成り、屋根の中央に鳳凰または葱花を据え、端には蕨手がつく。
これが八幡神輿の場合は、鳳凰、稲荷、天神は葱花。
台輪には二本の棒を縦に貫いて轅とし、舁ぐときに横棒を取り付けることとなる。
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