人は誰でも得手・不得手があると思うが、私は車に対して全く無知である。自分の車がカリーナであることはかろうじて知っているが、同じ車種の車が走っていても分からないだろうし、職員がどんな車に乗っているか覚えようとすれば頭痛がしてくる。冬と夏のタイヤ交換は車の修理業を営む友人のTさんが頃合いを見計らって交換してくれている。
しかし、世の中には車の事なら何でも知っているという人がいて、私は「すごいなあ」と感心し、人はそれぞれだと思うのである。
一体この違いは何か・・・と言えば、「興味」ということに尽きるのではないだろうか。興味を持てば知りたくなるし、調べたくなる。そして知らなかったことが分ってくると益々楽しく面白くなり、それによってまた興味が広がっていくことになるのだろう。
これは子どもであっても同じである。「子どもに共感し、子どもの興味のある物事から広げていく」ということは、療育の基本である。ところが、いつの間にか療育や保育の現場で「子どもの興味につきあって見守っていればいい。それが受容である。」という勝手な解釈によって、“ついてまわり保育”や“ついてまわり療育”が氾濫してしまった。子ども達の多くは、自分の興味のある事を探索し、考えながら自分で自分の世界を広げていくことができるかもしれないが、私達が関わっているお子さんの中には、感覚の不安定さも伴って興味が偏り、自分の世界をそこから広げていくことが出来ない子もいるのである。保育園で担任以外に支援する加配の保育士さんを必要としたり、学校で支援員を必要とするお子さんはまさにそういうお子さんである。だからこそ、ただ傍に寄り添って見ているだけではなく、一人ひとりの興味を大切にしながら、その子の興味を広げていく方法を探っていかなければならないのである。それが子どもに関わっている大人の使命である。
「好きなことだけやらせておけばいい」という“つけ”は、後になって子どもの困り感として跳ね返ってくるのだから・・・・。
2010.12.22 発行