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大垣つれづれ

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大垣つれづれ

大垣藩の戊辰戦争

 大垣市文化財保護協会から『戊辰戦争と大垣藩』が刊行された。大垣藩の戊辰戦争へのかかわりを物語る史料を収録した書籍である。この団体は以前、1987年に写真と調査記録による『大垣藩の戊辰戦跡』という冊子を刊行しているが、今回の本は官報の前身である太政官(だじょうかん)日誌など主として公の記録を中心とする史料の抜粋集成である。本は幕末ギリギリの時点における大垣藩の態度決定までの緊迫した状況を物語る内容を巻頭に置き、ついで鳥羽・伏見の戦いで抵抗した罪を赦すかわりに東山道・東北・北陸に向かう新政府軍への参加を求められての戦闘の日々の記録を載せている。巻末には清水進氏による論考「大垣藩城代小原鉄心」が加えられている。
 この本の母体となったのは、大垣の古い蔵元、澤田屋三輪酒造の5代目だった三輪広吉氏が遺された原稿であり、7代目の高史氏が広吉氏子息の隆一氏のもとで存在を確認されたものである。几帳面な書体で原史料の内容が細かく原稿用紙の升目に写し込まれたものが製本されて『戊辰戦役』の題箋が付されている。今年が明治新体制の発足から150年、藩論をリードした小原鉄心がその酒を愛した澤田屋の創業180年、さらには鉄心生誕200年(ついでに言えば江馬細香生誕230年でもある)にあたることを考えれば、本の発見も公刊も時宜を得たものと言うことが出来よう。市の文化財委員も務められた澤田屋5代の三輪広吉氏は歴史への関心が深く、今回の本のほかにも、明治43年(1910)に刊行された中村規一氏の著書『小原鉄心伝』の文体を読みやすく口語体に直したものも残しておられ、こちらは平成9年(1997)に活字化したものが原本複製と揃いで小原鉄心顕彰会から刊行されている(現在絶版)。沢山の史料を駆使して著された原本そのものが今では入手し難く、これも貴重な仕事だったと言える。
 今回の本の戦いの記録の部分をひもとくと、公の文書ということもあり、あまり感情を交えず、事に当たった人名を細かく挙げて淡々と事実経過を綴っているので、かえって臨場感が深い。「賊」、「賊兵」の呼び名が続出するのが気にならなくもないが、これは記録の性質上、仕方のないことである。奥羽と北陸に向かった大垣藩は、当然、長岡をも攻めることになる。河井継之助もまさか敬愛する小原鉄心の藩勢に攻められることになるとは思っていなかったであろう。この内戦はいろいろ惜しい人物を失っている。それは攻め手の大垣藩自体も同じである。この本では、会津城攻撃の死傷者のところに、二行、「軍事奉行
 負傷 佐竹五郎(十月朔日横浜病院に於て死亡)」と記される佐竹五郎も、生きていれば、とつくづく思う一人である。この「つれづれ」でも以前、吉田松陰が郷里から江戸に向かう旅の途次で彼に会いに大垣に寄った日のことに触れた。嘉永6年(1853)5月13日である。佐竹は山鹿素水の塾で松陰と机を並べていた。父親には西洋の兵法も重ねて学べと言われていたらしい。巧みな用兵で知られた彼は、函館五稜郭の築造にもかかわり、北海道や小笠原諸島の調査にも加わっている。大垣藩の兵制の洋風への改革にも貢献した人物だったが、足に受けた銃弾の傷がひどく、搬送先の横浜の病院で落命した。


2017.6.26