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大垣つれづれ

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大垣つれづれ

ヨーロッパ行きを志した菱田海鴎

『亦奇録(えっきろく)』というおそらく維新の前年、慶応3年の出版と思われる小型本3冊がある。ほかでもない小原鉄心が、慶応2年、藩公の命を受けて江戸に赴いた折の往復の旅行記だが、実に面白い。江戸に着くまえに立ち寄った横浜では、稼動したばかりの幕府の製鉄所を視察、居留地の異人館をめぐり、のちに読売新聞を創刊することになる大垣藩出身の子安峻(こやすたかし)が洋訳官として働いているのに会い、彼の通訳でオランダ人と対話、また広東から来ている中国人たちと漢詩のやりとりを楽しむ。いっぽう当時の大垣藩は幕命で長州藩と戦っている最中であり、早馬がその戦況を伝えてくる。さながら幕末の現場に立会っている如き臨場感ある記述である。この旅は、菱田海鴎や野村藤陰など鉄心が目をかけている少壮藩士たちを連れてのもので、鉄心の提案で皆が交代して記した日録が『亦奇録』なのである。江戸への往きの旅をおさめた上巻では、海鴎の目的は松島探勝で、それで江戸まで随行するということになっていた。江戸滞在中の記事が載る中巻を読み終わり、陰暦6月始め、江戸からの帰りの旅を記す下巻の海鴎担当のところに読み進んでびっくりした。松島に行くと言っていたのは実は嘘で、本当は函館に行って、そこからヨーロッパに行くつもりだったが「故ありて果せず」、まことに残念でならないというのである。一行が大垣を出発した3月末にはまだ海外渡航の禁が解かれておらず、海鴎の企ては少なくともその時点では密航であった。しかし奇しくも彼らが大垣藩邸に着いた翌日である4月7日に学問と商業が目的の渡航が正式に認められるのである。もっとも幕府自体がすでに4年まえに榎本武揚や西周ら留学生をヨーロッパに送っているし、長州藩や薩摩藩も留学生たちをたくさん密航させているから、少し前ほどの危険は無かったとも言える。30歳の海鴎が出港先に函館港を択んだのは、2年まえに新島襄が函館でアメリカの船に乗り、上海経由でアメリカに行くのに成功した事例があったからだろうか。このとき海鴎が当初の目的通りヨーロッパに行っていたら、帰朝した彼はどんな活躍をしていただろう。まずは新政府の太政官文書課に配属され、やがて青森県令にもなる役人生活とは一味違う面白い生涯が待っていたのではないかという気がする。それはともかく、とりあえずこの幕末ぎりぎりの日本脱出が実現していれば、鳥羽・伏見の戦いの際に長州兵に捕らえられ危うく斬殺されようというところ、詠んだ詩一篇が相手の心を動かして命を助かったというあの有名なエピソードは生まれなかったことになる。


2010.7.20