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江芸閣と大垣の詩人たち

 新婚早々の梁川星巌が旅に出て、2年に近く家に戻ることが無かったについては、彼の生涯の中での謎の空白とされているが、彼はこのとき旅先で生前の柏木如亭に約束した遺著『如亭山人遺稿』と『詩本草』刊行の仕事に従事していたのではなかろうか。いくつかそれを示唆する事柄があるし、また二つの本の刊行の年と考えられる文政5年(1822)、夫妻揃っての西征の旅に出かけているのも、その傍証となろう。ただ原稿の入手から刊行までの時間の短さを考えると、この種のマネージメントについての星巌の才を思わざるを得ない。これについてはまた稿を改めることにして、ここでは大垣の詩人、星巌および江馬細香の二人と、清の商人でこの風土の文人たちと交わりをもった江芸閣(こううんかく)との関係について考えてみたい。この二人と江芸閣のかかわりの元になったのは頼山陽である。山陽は文政元年(1818)長崎を訪れている。彼は広島の実家での父の三回忌のあと、九州遊歴の旅に出るのだが、そのうち2か月ほど滞在した長崎で江芸閣に会うことを考えていた。
 現在残る資料からは、江芸閣の日本滞在を示すものは文化12年(1815)が最初で、最後は天保3年(1832)のようだが、この間、十数回来日し、長いときはほぼ2年にわたって滞在したこともあったようだ。江芸閣は詩のたしなみがあったので、当時来日した清人の中では教養人として知られ、長崎を訪れる文人たちはこぞって彼との対話、詩文のやりとりを求めたのである。山陽またその一人であった訳だが、あいにくこの時は台風の影響で船の到着が遅れ面会が叶わなかった。山陽は長崎の茶屋で江芸閣の寵妓、袖咲(袖笑=そでさき)と逢い、彼に贈る詩を託す。おそらく文政2年(1819)の秋、如亭遺稿集の序文を依頼に鴨川べりの山陽邸を訪れた星巌は、旅の記憶冷めやらぬ山陽から九州の魅力を聞かされたに相違なく、江芸閣のことも当然、話題にのぼったに相違ない。星巌はこのとき九州への旅を決意した筈であり、実際、長崎で彼に面会して親しく交わり、九州での詩作を収める文政7年(1824)の『西征集』巻二に跋文を貰っている。当然のことながら、私の知る限り最高の詩人であるとする激賞の言葉が連ねられている。
 江芸閣と連絡がとれた山陽は、才能ある女弟子(じょていし)細香の存在を自慢したようだ。女弟子たちの詩の選集を編んだ乾隆時代の詩人袁枚(えんぼく)のことが意識にあった筈である。さっそく江芸閣から彼女あての挨拶の詩が届き細香に転送される。細香は韻を和した詩でこれに応えるが、本場の人にこの風土の詩文の水準を示す機会と捉える山陽は大変な気遣いで、丹念な詩の推敲に重ねて、返事の書き方、名乗り方、墨竹画を添えることなど、細香に細かく指示を与えている。細香の詩に対してはまた江芸閣から詩が返され、彼女は都合二度、江芸閣に答詩している。二度目の書簡は何故か大変遅れて蘇州の江芸閣のもとに届いたらしく、これに応える江芸閣からの三度目の便りは細香の答詩の余白部分に書信をしたためるという異例の形で届けられ、詩のやりとりはこれでもって終りを告げている。


2016.10.24