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いまも使える大日本地名辞書

 私が日ごろ机辺において愛用する本のひとつに『大日本地名辞書』がある。全11冊から成る初版の刊行が完結したのは明治40年(1907)10月、今から数えて110年ほど昔である。吉田東伍が執筆に取り掛かったのは明治28年の冬、それから13年かけて5180ページに及ぶ膨大な著作が完成した。以来幾度も版を重ね、いまは初版の刊行後、彼が制作した『大日本地名辞書余材』と題する追補稿本の内容を各項目それぞれに配した増補版全8巻が当初から変わらぬ出版社、冨山房によって刊行されている。私はどこか初めての地名に接すると、この辞書の索引で捜して該当ページを読む。今日では平凡社と角川書店から各県別の地名辞書が刊行されているが、それを見るより大昔に出た『大日本』のほうに必要な情報が簡潔に詰まっていて、充分、あるいはそれ以上の役割を果たしてくれるのである。吉田の持論もあって、この辞書の巻建ては増補版では、汎論・索引に一巻を充て、残り七巻が上方、中国・四国、西国、北国・東国、坂東、奥羽、北海道・樺太・琉球・台湾という構成になっている。すなわち大垣を含む西美濃の地名は「東国」に属することになる。
 この辞書の価値を一言で言えば、歴史地理という観点にこだわって記述と資料収集がなされていることであろう。古くからの歴史を負った地名が刻まれた大地図の各所に、そこで繰り広げられた人間の営みの記録が貼り付けられているとでも言ったら良いだろうか。試みに「美濃国」の項を見よう。全体の地勢を叙述し、美濃の呼称は真野(まの)に由来するとし、三つの野が在った故とする説を退ける。各所に詩や句を挟む吉田は、菅茶山が美濃の古戦場に思いを馳せた詩を引用、「美濃は旧京畿(かみがた)の東に於て、山道の門戸に当れり、而も東海道より尾張に入り、美濃、伊勢の両路ありて、伊勢には鈴鹿越、伊賀越の険あるを以て、兵馬の馳駆(ちく)は美濃路を取るを大法とす。故に木曽川の諸渡津、及び西美濃の原野は、常に山海両道の走集に当り、兵家の必争地となる」と続ける。
 この「東国」が載るのは初版では「第3冊之上」巻で明治35年(1902)の刊行だから、大垣は安八郡(いまは「あんぱち」だが、この辞書では古い呼び方「あはち」が採用されている)の項に、「大垣町、人口二万、西美濃の都邑とす」と載っている。続く「大垣城址」の項には「維新後廃毀、今猶天主閣を存す」とあって、城の構成と詳しい歴史に触れたのち、籠城する士の家族の様子を活写した貴重な文献『おあん物語』にいち早く着目、長文の引用をしているのが目を惹く。現在は大垣市内となっている各地区についても、それぞれの歴史が記載されており、東大寺、延暦寺、石清水八幡宮、伊勢神宮など、この一帯の土地を上方の寺社等が領していたことを教える。神戸(ごうど)に立派な日吉神社があるのは、延暦寺領平野庄に由来するもので、以前は小比叡(こびえ)神社、さらには山王権現と呼ばれたことも、大垣に来た当初、この辞書によって知った。吉田は町村合併などで古い歴史的に意味ある地名が消えることを憂いていたというが、この辞書はまさにそれを救い上げ後世に伝える役目も果たしている。


2015.11.16