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大垣つれづれ

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大垣つれづれ

大垣に立寄った吉田松陰

 吉田松陰は嘉永6年(1853)5月12日、大垣を訪れている。時に24歳。彼は2年前、すなわち嘉永4年に藩主の参勤交代に従ってはじめての江戸入りをし、安積艮斎(あさかごんさい)、山鹿素水、佐久間象山らに教えを乞うたのち、12月に東北視察の旅に出る。ただこの旅について、藩の許可は出たものの、往来に必要な過書の発行を待たずに出発したため、士籍を失い嘉永5年5月に萩に戻ることを余儀なくされる。しかし松陰の才能を認める藩主は10年の諸国遊学を許可、これによって彼は翌6年1月26日に故郷を発って再度、江戸へと向かう。こうして5月24日に江戸に到着するまでのあいだ、松陰は精力的に旅の道筋に住む旧知の人々を訪ねており、大垣への立寄りもまたそれゆえであった。松陰は海路で大阪に出、5月初めに奈良、伊賀上野を経て6日に津に到着、津藩の儒、斎藤拙堂に10日に会う約を取り付け、伊勢往復ののち津に2泊する。伊勢参宮から戻って津に着いた松陰は宿で大垣藩の野村藤陰に出会う。野村は小原鉄心が藩の教育を任せるべき人物と見込んだひとで、足掛け4年、自分が私淑する拙堂のもとに留学させていたのである。野村は松陰の3歳年長であった。翌10日、二人は連れ立って拙堂の棲碧山房を訪れる。拙堂の子息のほかに相客二人が居たようだ。話は尽きず、相客たちは夜、松陰と野村が居る宿に来て談笑したらしい。松陰は11日、津を発して12日に桑名の森伸助のもとを訪れている。森は今尾に、森の弟たちはその先の大垣・神戸(ごうど)へ行くということで、松陰は夜、舟を出してもらう彼らに従って翌13日朝、今尾に着き、そこから歩いて大垣に向かった。
 このように詳しい日程が掴めるのは、松陰が旅日記「癸丑(きちゅう)遊歴日録」を遺しているからである。またこまめに兄や知人宛てに出している書簡の内容も助けになる。松陰は「地を離れて人なく、人を離れて事なし。故に人事を論ぜんと欲せば、先づ地理を観よ」(金子重輔行状)と言っているが、その通り、訪れた場所のデータが日記の随所に書き留められている。初めて訪れる大垣については、あらかじめ野村から聞き取って、土地は平坦、水路が縦横に走り、人家五千戸、藩校は敬教堂などと記している。大垣に寄るのは、最初の江戸滞在の折、山鹿素水の塾で一緒だった山本多右衛門(のちの佐竹五郎。戊辰戦争で没)と安積艮斎のところで出会った井上荘二郎に会うためだったが、ともに長時間の話は出来なかったようだ。やはり素水門の竹中家家臣の長原武(たけき)にも垂井で逢う積りだったようだが、彼は江戸に出ており、のちに江戸で会うことになる。この13日の泊まりは揖斐川を渡った先の中山道の美江寺(みえじ)宿と記されているが、以前、佐竹五郎のご子孫と名乗られる方のブログに、彼の日記が残っており、それに松陰が彼の家に宿泊、夜の街に案内したとあるとあったと思うが、いまこのサイトは閉じられているようで確かめるすべが無い。すべての旅の記録が残っている訳ではないが、ただ松陰の短い生涯における萩と江戸の往還の各回の状況を考えると、再度の大垣訪問の可能性はかなり薄いと思われる。それとも松陰の精密と見える日記に虚構が隠されているのだろうか。


2015.1.19