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お玉が池に住んだ梁川星巌

 岡本綺堂の『半七捕物帳』の「冬の金魚」は江戸神田お玉が池のしもたやに住む俳諧宗匠と女中が殺される話で、まずはこの土地の説明から始まる。「お玉が池の伝説はむかしから有名であるが、その旧跡は定かでない。地名としては神田松枝(まつえ)町のあたりを総称して、俗にお玉が池と呼んでいたのである。その地名が人の注意をひく上に、そこには大窪詩仏や梁川星巌のような詩人が住んでいた。鍬形澪悄覆わがたけいさい)や山田芳州のような画家も住んでいた。撃剣家では俗にお玉が池の先生という千葉周作の道場もあった。それらの人達の名によって、お玉が池の名は江戸時代にいよいよ広く知られていた」。以前ここには不忍池よりも大きな池があり、その傍らの茶店にお玉という美しい娘がいた。彼女はどちらと択び難い二人の男に懸想され、彼らの争いはこの身あるゆえと池に投身してしまった。これを憐れんだ近くの人々が遺骸を池畔に葬り、そこに祠を造って祀ったことから池がお玉が池と呼ばれるようになったという伝えがある。これは万葉集に出る芦屋(あしのや)の菟原処女(うないおとめ)や真間(まま)の手児奈(てこな)、桜児(さくらこ)、蔓児(かづらこ)と同類の話で、『大和物語』にも出、ついには能の「求塚」ともなったストーリイであって、おそらくそうした過去の悲しい物語が下敷きになって生まれた都市伝説であろう。
 天保5年(1834)11月、数えで46歳の梁川星巌が江戸に下ってここに玉池吟社を開いたについては、江戸後期の漢詩の世界に新風を吹き込んだ市河寛斎が50年ほど前にこの地に江湖詩社を開き、さらにその門人であった大窪詩仏が30年ほど前に詩聖堂を営んで流行詩人として大成功をおさめた、いわば江戸漢詩の聖地ということがあったろう。新居を結ぶにあたっての「玉池これ西野天民(寛斎と詩仏のこと)二老の故居」という星巌の言葉に、「茅宇を結びもって琴書を庇ふ」の謙遜の裏に隠された自負が見えるようだ。大きな池は江戸市街の発展に伴って徐々に埋め立てられたが、それでも詩仏の時代にはまだ400坪ほどの広さで残り、詩聖堂の離れはその池畔に建っていたという。星巌の詩によると、彼の時代にもまだ小さいながら池は残っていて、その畔りにささやかな家を建てたように受取れるが、斎藤拙堂の「玉池吟榭記」には「一池を開きて」とあって、新たに池を掘ったと受け取れる。幕末の江戸図には池の記載は無く、真相はどうか確かめるすべは無いが、とりあえず水辺の想いはある構えだったようだ。星巌のもくろみは成功し、彼の吟社には当代の名だたる詩人を集めて星巌は詩壇の雄となった。星巌邸の隣に佐久間象山の象山書院が在ったのは良く知られるところだが、22歳年下の象山のほうが天保10年(1839)6月、あとから越してきたのである。象山が述懐しているように、二人は詩のことだけでなく、国事を憂えての話にも耽ったようで、この出会いは星巌のその後の行動に大きくかかわることになる。星巌は弘化2年(1845)6月、玉池吟社の門を鎖して郷里大垣に帰り、翌年、京都に赴いて、以後は京都を舞台の政治的な活動でもさらに知られることになる。


2014.7.22