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大垣つれづれ

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大垣つれづれ

大活躍の若様の発明品

 大垣藩主戸田家には幕末から明治にかけて異色の若様がいる。9代氏正の四男で維新後、欽堂と名乗ったひとである。彼については、この「つれづれ」のスペースでは書ききれないほどのエピソードがある。ご存じの方が多いかとも思うが、ただご存じない方に概略だけでもご紹介したくて彼をとりあげる。まずこの若様の出自が異色である。氏正の子に間違いないが、母親が行儀見習として出仕していた豪商、高島嘉右衛門の姉なのである。4歳で分家の養子となるが、成長した彼はおそらく嘉右衛門の財力にも支えられて自由な活躍を始める。明治4年(1871)には異母弟で戸田家11代を継いだ氏共(うじたか)とともにアメリカに渡る。1年少しの滞在だったが、ここで民権思想とキリスト教に出会ったのが、彼を大きく運命づけることになる。
 帰国した彼は明治7年(1884)、建ち上がったばかりの銀座煉瓦街3丁目に九星堂(もちろん戸田家の九曜星の紋に基づく名)という輸入品販売の店を開き、さらに聖書やキリスト教関係の書籍を扱う書店、十字屋を開く。いまも銀座3丁目で楽器を販売する同名の店舗の始まりである。これらの店にかかわる同志が横浜で外国人払下げのオルガンに出会ったのがきっかけで、十字屋は楽器も扱うことになるが、その楽器店としての発展は、明治17年(1894)、欽堂が自ら考案した手回しオルゴール「紙腔琴(しこうきん)」を販売、大ヒットしたことによる。これはクランクを回すと、共鳴箱の中の鞴が風を送り、それが音の高さと長さに合わせてロールに開けられた穴から吹き出して金属製のリードを鳴らす仕組みであった。音楽史の研究者は、アメリカの教会で讃美歌演奏に用いていた同種の機構がヒントになったかとするが、彼の紙腔琴が受けたのは、ひとつには外装に蒔絵を採用したり、題材に日本の長唄や端唄、琴歌、流行歌、唱歌、軍歌など、基本的に和物を多く択んだ点があるかと思われる。紙腔琴については、実物の写真やのびやかな演奏の収録などがネットでたやすく検索できる。
 アメリカ人宣教師カローザスに導かれた築地バンドのひとりである欽堂は、日本における長老派教会の設立に奔走し、また自由民権運動に力を注ぐ立場から日本最初の政治小説『民権演義・情海波瀾』を著したり、経済史に名を残すスタンリー・ジェヴォンスの『論理学』の翻訳を手がけるなど、多方面に活躍する。このあたりの欽堂およびともに十字屋を立ち上げた盟友、原胤昭(たねあき)の活動については、太田愛人『開化の築地・民権の銀座』(築地書館)に詳しい。またこうした若様の姿を借りて、松井今朝子が『銀座開化おもかげ草紙』のシリーズをものしている。この連作の主人公、久保田宗八郎は旗本の次男坊で、高島嘉右衛門のもとで働く兄の示唆で銀座煉瓦街の若様の手伝いに来たという設定である。若様は明治23年(1890)、40歳の若さでこの世を去った。


2013.12.16