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大垣つれづれ

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氏教と重蔵と徳内と

 『江戸色ごと仕置帳』(丹野顕著・集英社新書)の頁を繰っていたら、大奥の女性までを巻き込む色ごとの場となっていた江戸谷中の日蓮宗寺院延命院を享和3年(1803)に摘発、僧日潤(日道とも)が女犯の罪に問われた事件の項に、当時の判例記録を引いて「重々不届きの至りにつき戸田采女正殿御指図により死罪申し付く」とあった。この采女正は大垣藩7代藩主氏教(うじのり)、すなわち6代氏英の長子が早世したので戸田家に養子に入った館林藩主松平武元の二男である。寛政2年(1790)34歳で老中となり、文化3年(1806)没するまでその職にあった。歴代の藩主で幕閣になったのは彼ひとりである。三田村鳶魚の本に詳しいこの事件は、寺社奉行の脇坂安董(やすただ)が家臣の娘を奥女中に仕立てて延命院に潜入させて動かぬ証拠を掴み、60人近いかかわった者すべてを明らかにした有名な話だが、結果として美男だったという主犯の僧に極刑を課し少数の女性に相応の処分をしたものの、将軍家斉の大奥に関してはほとんど穏便に済ませたらしい。氏教たちの気遣いがあったのだろう。
 ところで老中としての彼の名前には、以前、古書売立ての際にお目にかかったことがある。それは蝦夷地探検で知られる近藤重蔵が寛政12年(1800)正月21日、北海道のサマニから戸田采女正に送った長文の書簡で、この年のエトロフ島行きとそこでの調査についての伺い、着々と進出してくるロシアへの対策の意見具申などが記されている。これは彼の二度目の蝦夷行きであり、寛政11年からの旅で、このときは高田屋嘉兵衛の持舟でエトロフに赴く航路を開発している。書簡の上部には、細かい字でびっしり記された氏教の返答と指示が各所に付箋として貼り付けられている。近藤重蔵関係の書類や絵図数百点が東京大学の史料編纂所に「近藤重蔵遺書」として保管されており、そのうち760点が一括して重要文化財に指定されているが、これはそれとは別に所蔵されてきたものらしい。350万という高い値段が付いており、北方資料を得意とする札幌の本屋さんの出品であった。
 寛政10年の第一回の蝦夷行きのとき、近藤はエトロフ島の北端に「大日本恵登呂府」の標柱を建てているが、この折に彼が伴った16歳年長の最上徳内は、すでに天明5年(1785)以来何度も蝦夷に渡っている大ベテランであった。この旅は氏教が立案した蝦夷調査の大プロジェクトによるもので、徳内はその後も樺太などに赴き、晩年には来日したシーボルトと面談して、その北方についての知識で驚嘆させている。当時、蝦夷・千島・樺太を彼ほど細かに踏査したひとはいなかった。彼の墓が戸田家廟所のある本郷駒込蓬莱町(現在の文京区向丘)の蓮光寺にあるのは偶然だろうが、職務上、北方問題に深く関わらざるを得なかった老中氏教との繋がりについ思いが行ってしまう。ちなみに浄土宗に属するこの寺は、明暦大火以前は湯島にあり、開基は大垣戸田家初代一西(かずあき)で、僧となったその三男が開山である。


2013.10.21