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大垣つれづれ

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飯沼慾斎の平林荘のこと

 城戸久(きどひさし)という研究者がおられる。明治41年の生まれで、名古屋高専の建築科を卒業、その教授となられ、昭和47年、定年退職される時には学校が新制の名古屋工業大学になっていた。建築学会の副会長を勤められ、城の研究で知られた方だが、私は『先賢の遺宅』や『藩学建築』といった、それまでひとが取組まなかった主題を扱った著作に惹かれていた。頼山陽の山紫水明処、水戸光圀ゆかりの西山荘、松坂の本居宣長の鈴屋、宇陀の薬草研究家森野賽郭の桃岳庵、閑谷学校などを、私はこれらの本に導かれて訪れたのである。
 先生は住宅史が上流階級の邸宅と民家のみをもって論じられるのは片手落ちで、「中間的な存在である」「いわば知識階級の」住宅を知る必要があると言われる。その先生が昭和18年、飯沼慾斎が『草木図説』を著わした平林荘を調査対象に択ばれたのは、ほんとうにラッキーなことであった。すでに荒廃していたとは言え、まだ慾斎当時の建築が残っており、先生はそれの簡略な平面図を描かれたのである。これは好評だった『先賢の遺宅』の続編に収められる予定だったが、大戦末期の混乱で出ずじまいとなり、構成を変えて退職記念に出版された『城と民家』に収録された。先生はこの天保3年(1832)に建てられた家が、研究と教育の便を良く考慮に入れて造られていることに着目し、細かく各部分を分析しておられる。
 私は大垣に来てすぐ、この本を頼りに長松に平林荘を訪ねたが、建物がもはや存在しないと分ってはいたものの、県の史跡とは思えない現状に一抹の淋しさを禁じ得なかった。昭和6年出版のベストセラー、鉄道省編集の『日本案内記中部篇』の平林荘の項目に、すでに「近年甚しく破損荒廃している」と書かれ、城戸先生の文章にも、「わたしが平林荘を調査した昭和十八年当時では、居住する人もなく荒廃にまかせられていた」とあり、その結果として建物が取り壊されたのは、「どう思っても惜しいことをしたものだと思う」とある。慾斎が慈しんだ草木でいっぱいだった庭も、補助金が出て手が入ったこともあったようだし、何回も調査をして植生図が描かれたようだが、庭は継続して手入れをしなければたちまち荒れてしまう。たぶん土地の権利関係もあって難しいとは思うが、何かせっかくの場所を慾斎の偉業に思いを馳せるところとして長く保存する良い知恵が無いものだろうか。

城戸久先生が描かれた平林荘の平面図。先生は1階南西角の9畳間を慾斎の研究執筆の場と推定、また2階を塾生たちの生活の場と考えられ、とくに9畳の間の床脇の空きを慾斎らしい明かりとりの工夫とされた。

(『城と民家』昭和47年毎日新聞社刊による)


平林荘の平面図

2013.5.20