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大垣つれづれ

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樋口一葉の住んだところ

 24歳の若さで生を終わった樋口一葉は、生涯に14度転居している。その15の住所はすべて研究者によって明らかにされているが、彼女の遺跡として文学散歩のひとが主に足を運ぶのは下谷龍泉寺町と本郷菊坂町の二ヶ所である。いまでは前者が竜泉3丁目、後者が本郷4丁目という何の変哲もない地番になり、町名が呼びさます界隈のイメージが失われたのは淋しい限りだが。菊坂町には18から21歳、そのあと龍泉寺町には21から22歳にかけて住んだ。逼迫する生計のなかで文筆の世界への志を捨てず、命をすり減らす日々を過したところである。まったく偶然だが、この二つの住まいのすぐ近くに大垣と深いかかわりがある建物があったというのが今回の話である。まず龍泉寺町、その吉原に向う大音寺通りに面する間口二間奥行き五間半の棟割長屋が明治26年(1893)に引越した一葉一家の店と住まいであった。彼女が企てた商いは失敗で滞在は10ヶ月に終わるが、ここでの体験がのちに『たけくらべ』に結実する。この一葉の家から吉原と反対方向に10軒ほど行ったところが四つ角で、その向うに広い屋敷地が二つ、初代警視総監の川路利良と大垣の殿様、戸田家のそれがあった。戸田家9代の氏正がこの屋敷で明治に入って没しているが、維新までは川路邸の分までを含めてが大垣藩の下屋敷であった。
 この龍泉寺町に移るまえ、一葉が住んでいたのが本郷菊坂下の路地奥であり、ここは当時の面影が残るところとして訪れるひとが絶えないが、彼女が最後に住んだ本郷丸山福山町(現西片1丁目)の家で息をひきとる明治29年(1896)、近くの帝大の学生などを狙っての下宿屋「菊富士楼」が、菊坂を挟んで反対側の台地に建ち上がった。主人は羽根田幸之助、安八郡川並村平(現大垣市平町)の出身である。前年、38で上京したばかりであった。才覚のある幸之助は大正3年(1914)に隣接地に地下1階地上4階洋風の菊富士ホテルを開設する。この年、上野公園で東京大正博覧会が開催され外国人客が訪れるのを見込んでのことで、この目論見はみごと成功するが、それだけではなかった。ホテルは大正から昭和10年代後半にかけて、著名な文士、学者、思想家が集まり住む別天地の観を呈し、ここを舞台に多彩な人間模様が描かれた。その様子は近藤富枝の『本郷菊富士ホテル』(中公文庫)や幸之助の三男で石亭グループを率いた羽根田武夫の『鬼の宿帖』に詳しい。瀬戸内晴美(寂聴)の『鬼の栖』もここを題材にした小説である。幸之助の成功を慕って縁戚や知己が上京、彼の指導宜しきを得て本郷界隈に次々に下宿屋や旅館を開いた。いまも本郷界隈にあって修学旅行生に賑わう旅館の創立者の多くが美濃出身者なのはこのゆえである。先ごろ惜しまれつつ解体された木造3階の「高等下宿」本郷館も、菊富士楼に10年ほど遅れて養老のひとが始めたものであった。


2013.1.21