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大垣つれづれ

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岐阜の4人がかかわる珠玉の建物

ややこしい題名だが、建物は横浜市本牧にある三渓園聴秋閣。4人は古いほうから順に、春日局、小原鉄心、原三渓、堀口捨己で、それぞれの出身地は現在の地名で、大垣市曽根町(ここで生まれたとしてだが)、大垣市郭町、岐阜市柳津町、本巣郡北方町である。実業家であり傑出した文化人でもあった原三渓は、本牧三の谷の広大な地に三渓園という庭園を営み、すぐれた古建築を択んでその各所に配置した。建物の択びと配置の妙は言うまでもないが、なかでも白眉がこの聴秋閣である。いわゆる茶屋建築、すなわち庭園内に配されるパヴィリオンで、江戸時代初期にしかるべき庭にあったものであろう。延坪にして15坪強の小ぶりの建物で当時流行の楼閣造り。上層はわずか2畳で、火頭窓と円窓が楼の思いを演出している。
3代将軍家光が春日局に贈ったという伝えは、江戸青山の稲葉丹後守の屋敷に伝来したことから間違い無さそうだが、当初何処にあったかについては京都二条城と江戸城吹上の二系統の伝えがある。どちらかの古図に記載があればそれで決まりなのだが、これが見つからない。詳細は紙幅が無いので省略するが、私は以前、種々の伝えを細かく比較検討して、二条城、吹上ともに可能性は薄く、可能性があるとすれば江戸城西の丸の山里くらいかと推論したことがある。原三渓がこの建物を手に入れたのは、維新後、売却されて都内牛込に移築されていたときだが、小原鉄心は幕末ぎりぎりの慶応2年に青山の屋敷を訪れて、庭内に建つこの建物を見ている。早世した第10代大垣藩主、氏彬(うじあきら)の室が稲葉丹後守正守の娘という縁での訪問と思われるが、伴をした菱田海鴎が「三笠閣(さんりゅうかく)という亭がある。大変蒼古だ」と記している。聴秋閣は三渓の付けた名なのである。
ところでこの茶屋の建築家は佐久間将監(しょうげん)と伝える。茶の世界では寸松庵(すんしょうあん)で知られるひとだが、家光の時代、小堀遠州と並ぶ幕府の建築家で、遠州とともに大徳寺山内に自らの隠居所を造った。焼失して図面と数枚の写真しか伝わらないその茶室の待合、五段登ったところに一畳台目の席がある濶遠亭(かつえんてい)のユニークな空間を見れば、聴秋閣も彼の設計ということがすんなり納得できる。ただこれら以外、彼の設計活動を示す遺構や絵図がいまに残っていないのが残念だ。この不運な才人の作品を研究したただひとりのひとが堀口捨己である。千利休の茶室の研究で知られる大学究だが、いっぽうでデザイナーでもあった彼は、如庵を営んだ織田有楽やこの将監のような異才の造形にこそ強く心惹かれるところがあったのではないかと思わずにいられない。
(三渓園は年末3日間を除き毎日一般公開されています)


・画像上:聴秋閣の外観―横山撮影
・下:濶遠亭内部の等測図―堀口捨己『茶室研究』による


聴秋閣の外観―横山撮影 濶遠亭内部の等測図―堀口捨己『茶室研究』による

2011.6.20