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大垣つれづれ

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大垣つれづれ

初代警視総監の住まい

司馬遼太郎の『翔ぶが如く』に江戸下谷(したや)金杉の大垣藩下屋敷が出て来る。司馬はそこで、戸田藩の下屋敷は敷地のかたちが複雑で、「うかつに塀に沿って歩いていると、とんでもない方角に行ってしまいかねない」と書いている。しかし嘉永6年、すなわち西暦1853年刊行の尾張屋版の今戸箕輪浅草絵図を見ても、そんなにややこしそうには思えない。たしかにこの敷地は、道路1本に面した矩形ではなく、道路3本にコの字型に端を挟まれる形だから、「塀に沿って」歩けば、2回、90度曲がってもとの方角へ戻ることになる。でもわざわざそんな歩き方をするご仁もなかろう。とにかく南を日暮里から錦糸町に向かうバスが走る本町通り、東を幅の広い国際通りが抑える敷地の輪郭はいまも明らかで、高層のマンションに混じって4,5階建てが並ぶ現状でも、はっきり輪郭の見当は付く。吉原に近く、樋口一葉がいっとき店を営んだところもすぐそばのこの下屋敷が薩摩藩出身者の群像を描く小説に登場するのは、維新になってその敷地の半分が大警視、すなわちいまで言う警視総監職の初代に就いた川路利良の所有に帰したからである。ただその経緯ははっきりしない。司馬は維新後、「薩長土肥の連中が、当時二束三文で売りに出ていた大名・旗本の屋敷を買いとって住んだ」と言い、この場合も、ひとまかせの斡旋の結果と記している。司馬が如何なる資料を見たのかは分らないが、拝領地1万坪、藩所有6千坪という敷地がどんな形でやりとりされたのだろうか。とりあえず明治に入っての資料は敷地が東西方向に2分割されたことを示しているが、西を川路邸とするものとその逆があって、川路の事績を崇める警察関係者は、いま下谷署がある西半を川路邸としているようである。禁門の変で戦功を挙げ、西郷、大久保に認められて抜擢、新政府の警察制度を造り上げる大任に就いた川路は、やがてその立場から西南戦争で西郷と対決することになる。川路は寺の存在ゆえの龍泉寺町という地名を気に入っていたらしく自ら龍泉と号し、没後、その詩を蒐めた『龍泉遺稿』が刊行されているが、その中に「西郷君南州の帰郷を送る」の一詩あって、「薫風四月江門(江戸のこと)の晩、客裏君を送り客愁増す」とある。四月とあるから、これは西郷の辞職事件より前の一時の帰郷に際してのことであろう。宿命の二人はどのあたりで盃を交わしたのだろうか。鴨場があり季節には筍の収穫もあった侘びた大垣藩下屋敷は、明治の曙に新しい主を迎えたことで歴史の表舞台にちょっぴり顔を覗かせた。


2010.11.15