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大垣つれづれ

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大垣つれづれ

江馬細香の酒

大垣に来ないかという話があった時に、まず思ったのは江馬細香の故郷ということだった。いま大垣は奥の細道結びの地を看板にしているが、こちらはそう言えばそうだったというほどの認識で、私にとっては細香という詩と絵の才に恵まれたひとの存在のほうが大事であった。もちろんそれで決めた訳ではないが、とりあえずの後押しになったことは否めない。で、大垣に来ることにしたあと、あらためて彼女の没後10年ほどで刊行された『湘夢遺稿』のページを丹念に繰って見て、ふとあることに気がついた。酒にまつわる語句が妙に目につくのである。私は酒が嫌いではないほうなので、ついそちらに目が行くのかと思ったがそうではない。数えて見ると、収録されている絶句、律詩などあわせて全350首のうち、60首ほどに酒、杯、飲む、酔うといった言葉が踊っている。6首に1首くらいの割合だ。細香は酒を愛したのである。その酒を謳った詩句がまたどれも心を惹く。ひとつ宿酔の詩を見よう。
  春窓寂々(せきせき)昼開くに物憂し。酒にあたり、情懐、灰に似て冷(さ)む。
  三日添えず鳬鴨(ふこう)の火。臥して聞く、朝雨、残梅にそそぐを。
読み下すにあたって、一部、現代通用の漢字や仮名に直してある。静かな春の日は戸を開けるのもおっくうでそのまま。それに酔いがどうにも抜けなくて、気持が晴れない。これで三日、水鳥姿の香炉も放りっぱなし。臥せったままで庭に残る梅花を濡らす朝の雨音を聴いている、というところか。酒の酔いに重ねての春の物憂い気分がみごとに描写されている。転句は彼女の詩を添削する頼山陽が入れ替えたもの。「近来、酒にあたり、三日、枕に臥すあり」という自註を消して、その内容を句中に組み込んだのである。最小限の手入れで、原詩の趣を崩さぬまま、全体の調子を高く引き立てる。細香の詩の添削を見ると、山陽の才、それも理想の教師としての才が窺われる。もうひとつ今度は秋の詩を引こう。
  好在、東郊売酒の亭。秋残疎雨、簾旌(れんせい)を打つ。
  市灯、未だ点ぜずして長堤暗し。同傘、帰り来る、此際(しさい)の情。
細香が京を訪ねた折、山陽門人の振舞で山陽夫妻、山陽の母とともに川魚料理を楽しんでの帰りを謳った詩。好在はさらばと言うほどの意で山陽の添削。簾旌はのれんや旗。細香が結句を「日暮の情」と結んだのを、山陽が「此際の」と直した。同傘の語と呼応して師弟二人の交情が浮び上る鮮やかな手入れである。細香の酒の詩には、この他にも心惹かれるものが沢山ある。ぜひご覧いただきたい。細香の研究者である門玲子さんの訳注による江馬細香詩集『湘夢遺稿』上下2巻、汲古書院刊は、まだ新本で入手出来る筈。またコロンビア大学出版会から150首ほどを択んでの英訳本も刊行されている。


2010.10.18