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大垣つれづれ

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大垣つれづれ

「大垣つれづれ」の連載を終わるにあたって

 毎回、とくに番号を振ることはしなかったが、実は先月が99回目で今回で100回となる。数のきりもいいし、また8年を超える長きにもわたったので、勝手ながら今回をもって終了させていただくことにした。それにしても毎回、あちこちといろいろな話題に飛んで、目まぐるしい思いをされた方も多かったのではあるまいか。私は東京の生活が長かったので、車の運転をしない。それが車なしには用の足りない大垣という土地に居を移して、祭りや催物にもおいそれと気軽に出かけられない身とあっては、どうしても本棚の中から話題を探しがちになる。そしてまたこれが不思議に思いがけず開いた本のページに必ずと言っていいほど大垣に関する記述が出てくるのだ。だから「つれづれ」用に書き溜めたノートには、まだまだテーマが尽きないが、でもひとたびそれを採り上げようとすると、またあちこち調べが必要となってきりがない。ひとまづこのあたりで幕を閉じさせていただこうと考えた次第である。
 東京あたりでは私が郷土史に没頭しているという噂もあったりするようだが、私はそんな大それたことを考えてはいないし、そもそもやれる訳がない。私に可能なのはごくささやかな文章、それも大垣という愛すべき土地を、少し視野を拡げて、たとえば東京といった視点から眺めるものといったくらいのことだ。50年以上暮らしてきた中で養われた思考の型からはなかなか抜け出せるものではない。そんな私が扱おうと思いながら、結局取り上げずに終わった心残りの人物が何人もある。美濃の出身である建築史の伊藤ていじ氏、建築家の坂倉準三氏、幼少の時代を大垣の八幡様で過ごされたらしい美術史・美術評論の土方(ひじかた)定一氏、『女工哀史』の細井和喜蔵氏を支えた良きパートナーで大垣の繊維工場以来の闘いの歴史を『わたしの女工哀史』に綴られた高井としを氏、いまも昔の建物が一部残る高井氏にとっては敵役の後藤毛織製造所(その後東洋毛織、さらに東京毛織など)の後藤恕作氏等々である。いずれも1300字ほどのスペースでは何かエピソード一つに絞らざるを得ず、コラムの対象としては断念するほか無かった。いづれ人物以外の他の主題ともども何らかの形で増補出来ればと考えている。
 このコラムの連載は途中から「大垣地域ポータルサイト西美濃」のスマホ版にも収録されるようになり、当初からのパソコン版ともどもたくさんの方々にお読みいただいた。いま連載を終えるにあたってそうした読者の方々に心からお礼を申上げたい。本当にありがとうございました。
 また私のコラムの担当になられたグレートインフォメーションネットワークの方々、しょっちゅう訂正の連続でご迷惑をお掛けしました。心から感謝いたしております。お礼申上げます。

                          横山正


2018.05.28