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守屋多々志の歴史画

 丸谷才一が書いた書評類を集めた『木星とシャーペット』(1995 マガジンハウス)の中に、大垣出身の日本画家、守屋多々志の歴史画に言及した一篇、「扇絵源氏」が載っている。ある雑誌に2012年に発表されたものの採録で、おそらく画伯の絵、それも源氏物語の扇面画の何れかに寄せる形で書かれた文章であろう。丸谷は言う。「近代の日本画家は好んで歴史に材を取った」。丸谷は画家たちの名を挙げる。横山大観を始めとして、守屋の師である前田青邨、小林古径、川端龍子などと。さらに洋画の青木繁、藤島武二もまた歴史画を手掛けたと言って、実は洋の東西を問わず「人間は昔から神話と伝統を絵に描くこと」が好きだった。それが19世紀の半ば、クールベの時代から「画家が取り上げるのは市井凡俗の徒の姿のみとなった」。この変革は日本にも波及したが、「日本画家の歴史趣味が衰へたのは戦後のことである」と。
 しかし「一人の例外があって」、それが守屋多々志画伯だと丸谷は言う。平家納経を描き、空海伝を金剛峯寺の襖絵にし、天草四郎を、また幼い津田梅子を描いていると。これには師の影響があり、また院展の空気もあるだろう。「しかし決定的なのは、人間がどのやうな存在であるかを守屋画伯が知ってゐることだ。人間は過去によって養はれるから現在に生きることができ、未来へと進む。さういふ事情についての深い認識が彼に歴史画を描かせるのである」と、丸谷は断言する。クールベは、なぜ天使を描かないかと問われて、「天使は見えないから」と答えたという。いっぽう、なぜ源氏物語に材を取るのかと問われたら、守屋画伯は「私には光源氏が、紫上が、六条御息所が見える」と呟くであろうと記して、丸谷はこの簡にして要を得たオマージュを結んでいる。
 丸谷はこの文章とほぼ同じころ、「西洋絵画のなかのシェイクスピア」展のカタログを見ての感想に、かつてあれほど絵画の主題に択ばれたシェイクスピア劇の登場人物が、現代の画家に拒まれているのは奇異な現象だと書いている。そしてこうなったのは20世紀の「学藝の純粋好き」のせいだという。美術の世界では「文学性をうんと排除することが美術的価値の追求になる」と考えた結果、林檎はセザンヌのアトリエにあるもの以外、描かれる資格を失い、アダムとイヴの林檎も、ウィリアム・テルの林檎も画家の表現の対象で無くなってしまった、というのが丸谷の説である。彼は現在の状態は「画人の怠慢」であり、やがて画家たちは新しいスタイルで神話や過去の文学の登場人物を描くことになる筈と結んでいる。
 丸谷のこの文章には、ややお座敷に呼ばれてのご挨拶的なところもなくはないが、彼なりの分析の筋は常の如くあざやかに通っている。ただ戦後、日本画家が歴史に題材を求めなくなったと言い切るのはどうだろうか。前田青邨も60年代、70年代には歴史画に手を染めているし、何より画家のリストに安田靭彦の名が落ちているのが残念である。彼も同じ年代にいろいろ歴史画を手掛けている。もちろん守屋多々志がほかの画家以上に一貫して歴史画の世界に向ってきたことには間違いないし、その誠実な考証を重ねた追求の中で他の追従を許さない匂やかな品格を創り出してきたことは丸谷が「閑雅瀟洒な色調」と形容する通りであるが。


2018.4.23