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琴をこよなく愛した田上菊舎

 前回は梁川星巌の妻紅蘭が琴(きん)の魅力の虜となった様子を扱った。しかし江戸時代、古琴に魅入られた美濃にかかわりある女性となると、もうひとり、紅蘭より51年早く生を享けた田上菊舎(たがみきくしゃ)に触れない訳にはいかない。俳諧を始めとして、和歌、漢詩、書、画、茶の湯と、出会うものすべてを完璧に習得していく天賦の才を備えた彼女が生涯、自らの友として親しんだのがやはり琴であり、俳諧においては各務支考を祖とする美濃派に属した故に幾度か師の故郷である美濃を訪れている。紅蘭も夫星巌に伴して各地を経巡ったが、それでも生涯に旅を重ねた距離の合計では菊舎のそれに叶わないと思われる。菊舎は生涯の節目節目には生まれ故郷の長府に戻るが、旅への思いやまず、またすぐ次の旅に誘われるのである。
 宝暦3年(1753)に長府の田耕(たすき)村に生まれた菊舎は16歳で嫁ぐが、その夫は彼女が24の歳に他界してしまう。子を持たない彼女は再婚の道を択ばず、実家の田上姓に復して29歳で得度、浄土真宗の尼僧として生きる道を択ぶ。さらにこれに先立って26歳のとき、長府在の五精庵只山(ごせいあんしざん)から菊車の号を貰っている。のちに31歳のとき、自身で菊舎と改めるが、以来、彼女は美濃派の俳人となったのである。天明元年(1781)長府を発った彼女は京・大坂を経て翌2年、いまは垂井町に属する岩手(いわで)村に美濃派6世朝暮園傘狂(さんきょう)を訪ね、その門下となって一字庵の号を授かる。傘狂は垂井の竹中家の家臣であり、江戸詰めの彼と江戸で会うこともあった。おくのほそ道の旅の逆回りを志した彼女は、大垣を出発点に、北陸・東北と巡って江戸に入る。この彼女一人の長旅の初め(親鸞の足跡も追う真宗の徒としては同行二人の心根だったであろうが)は江戸滞在を含んで足掛け4年にわたっている。
 こうした菊舎が紅蘭と同じく琴に惹かれた。41歳で江戸を再訪した彼女は、木工師作左衛門に琴の制作を依頼、薩摩藩士菊池東元から弾奏の手ほどきを受けたという。江戸からの戻り道、京都において公卿の平松時章(琴仙)から新しい琴に「流水」の銘を貰い、塗師(ぬし)中村宗哲に漆塗りを依頼、古琴に詳しい別の公卿に弾奏と漢語の発音を学び、さらに琴仙から紹介を受けた津在住の琴の名手、永田蘿道の許にも1か月ほど滞在して修行している。菊舎の才と情熱には人の心を揺さぶってやまないものがあるようで、各地の貴顕や名士の風雅の住まいに滞在を許されるなど、菊舎の行くところ厳しい門扉も自ずと開く趣がある。とりわけ文化3年(1806)、54歳の時、詩仙堂で石川丈山遺愛の明の陳眉公(ちんびこう)愛玩と伝える有名な琴を弾かせて貰ったり、また文化9年(1812)、60歳では、特別開扉の法要に際して、制作年が知られる現存最古の琴、法隆寺伝来の開元琴(現在東京国立博物館蔵で国宝。開元12年=724の年記がある)を太子像の前で弾かせて貰ったりと、各所で破格の待遇を受けている。この菊舎と32歳年下の若き11代長府藩主、毛利元義との交友は、詩人江馬細香と30歳年下の大垣藩老、小原鉄心との交友に似て微笑ましい。菊舎は64歳の時、悟るところがあって、旅をやめ故郷長府にとどまることを決めて文政9年(1826)、74歳で没した。大岡信は、もし故人を甦らせて会話することが可能ならば、女性でまず択びたいのは田上菊舎であると言っている。


2018.3.26