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明智光秀ゆかりの地をまちづくりに活かす「多良歴史同好会」会長、鈴木 利通さん(78)


「光秀のことをもっと知り、
まちづくりにつなげたい」
と語る鈴木利通さん
=上石津郷土資料館
 戦国時代の武将・明智光秀を主人公としたNHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」が2020年に放映される。光秀生誕の地との伝説がある岐阜県大垣市上石津町多良地区では、住民たちが歴史講座を開催する一方、「明智光秀誕生の地」と書いたのぼり旗を立てるなど、様々な取り組みを始めた。鈴木利通さんは「生誕地は諸説あるが、多良地区は少なくてもゆかりの地。ふるさとの歴史を学ぶとともに、まちづくりにつなげたい」と、力を入れる。
 「多良歴史同好会」は、2014年の発足。多良地区にある江戸時代の旗本「西高木家」の陣屋跡が国の史跡に指定されたのを機に、住民たちが「地元の歴史を知ろう」と結成した。現在の会員は、歴史好きな40〜80歳代の男女18人。年に4回、テーマを決めて勉強会を開いている。昨年10月17日には、明智光秀をテーマに行った。講師も原則として会員。


多羅城跡と推察される場所を
調査する鈴木さん(右)ら
=大垣市上石津町多良
 大垣市上石津郷土資料館の資料によると、光秀の多良生誕説の根拠は、「明智氏一族宮城家相伝系図書」(東京大学史料編纂所所蔵)や、江戸時代の国学者、塙保己一の著書「続群書類従」の明智系図。それによると、光秀はかつて多良地区にあったと推察される「多羅城」で生まれたとされる。多羅城の場所などの特定には至っていないが、推定される場所は複数あるという。西高木家陣屋跡(宮)のほか、「城」の名前が今も地名に残る、城ケ平(羽ケ原)、城屋敷(上多良)、城山(松ノ木)などが城跡ではないかと推察されている。鈴木さんたちは「お城があった、という話は聞いているが、どこにあったかは分からない。調べてみよう」と、地元の人の協力を得て現地へ足を運び聞き取りや調査をしている。


「明智光秀生誕の地 多羅城」
と書かれたのぼり=同
 鈴木さんたちも参加する上石津町の住民組織「上石津まちづくり協議会」では、11月3日に、歴史研究家を招き、大垣市上石津農村環境改善センターで、「光秀の実父は上石津多良の住人 山岸信周(のぶちか) そのすべて」と題した歴史講座を開いた。講座には、地元多良地区からの70人をはじめや県内だけでなく、大阪府や兵庫県、三重県、愛知県などから計220人が訪れた。同協議会では、市の補助を受けて光秀の生誕地の多良説を紹介するリーフレット1万部、のぼり旗30本、横断幕2枚を作成。リーフレットを上石津町のイベントなどで配布する一方、のぼりや横断幕を多良地区内の道路沿いなどに設置した。


光秀ファンら多くの人が
聴きに訪れた歴史講座
=大垣市提供
 歴史講座開催の前後から、大垣市上石津地域事務所や郷土資料館には、山城ファンを中心に歴史愛好家から「多羅城跡はどこにあるのですか」「多羅城を教えてほしい」などとの問い合わせが相次いでいる。地域事務所や郷土資料館では「ありがたいこと。しかし、多羅城がどこにあったかはわかっていない。学術的調査を待って」と返事をしているという。
 鈴木さんたちは今後、「明智光秀ゆかりの地多良」見聞記を作成し、多くの人に読んでもらう予定。鈴木さんは「光秀の前半生は謎が多い。大河ドラマで多良地区のことが取り上げられるかどうかは不明だが、多良地区が光秀の生誕地とされることを広く伝えたい。多良地区の歴史は、関ケ原合戦後、旗本・高木家が入ってくるまでのことは良く分かっていなかった。これを機会に多羅城の城跡だけでなく、多良地区の歴史を深く調べて地区全体で盛り上げていきたい」と話す。養老山系と鈴鹿山系の山に挟まれた静かな里山・上石津町多良地区。歴史ロマンあふれる訪れたい里山でもある。
2019.01.02(子林 光和)

今回の西美濃な人

鈴木 利通(すずき としみち)

 元・旧岐阜県上石津町職員。総務課長や企画課長を歴任。収入役も務めた。思い出に残るのは「豊かな自然と美しい緑に囲まれた自然公園『かみいしづ緑の村』を1982年のオープンまで手がけたこと」と振り返る。趣味はゴルフ。旧上石津町体育協会ゴルフ部や野球部の理事長も務めた。健康法は「今でもゴルフにでかけること」とか。子どもは独立したり、結婚し、現在は妻と2人で岐阜県大垣市上石津町で暮らす。


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