「玉倉部そばの会」は、昨年11月に発足した。メンバーは、玉地区の60代〜70代の住民有志15人。夫婦も岩津さんら2組いる。店は、関ケ原鍾乳洞売店の食堂だったスペースを借りた。材料は玉地区で生産されたそばの実。調理に使う水は、古代の英雄・ヤマトタケル伝説ゆかりの「玉倉部の清水」にちなみ、伊吹山ろくの湧き水と、地元にこだわった。会の名称も「玉倉部の清水」から名付けた。そばを打つのも、調理をするのもすべてメンバー。そばを打つ3人は岐阜市のそば打ち教室に通うなど特訓して準備を進めてきた。
店の営業時間は、原則として土・日・祝日の午前11時から午後2時半。メンバーの元気な声に迎えられて店内に入ると、お茶と一緒に、サービスとしてそばの切れ端を油で揚げたチップが出てきた。食べてみると、カラットしておいしい。そばは、四季折々の地区の野菜や山菜などを揚げた天ぷらと地元産のコメで作ったいなりずし2個が付いた「ざるそばセット(税込800円)」やかけそばセット(同)、そしてカレーライス(500円)などがある。手打ちにこだわり、冷たくてきれいな水で作ったそばは、多くの客から「おいしい。こしがある。いなりずしもおいしい。ボリュームもありまた来たい」と好評だ。
店では、はし入れもメンバー手作りとアットホームだ。岩津さんは「地区のお年寄りに働く喜びを感じてもらいたかった。だから、そばの実、コメ、野菜など使っている材料はみんな地元産。地産地消を実践しています。営業時間や期間なども、推移を見ながらみんなと相談していきたい。もうかりはしませんが、みんなの明るい顔がうれしい。そして次の世代へつないでいけるようになれば。そのためにも、多くの人にきていただきたい。火薬庫跡にも足を運び、歴史を知るとともに平和の尊さの勉強をしてほしい」と、期待する。
「玉の火薬庫」は正式名称「名古屋陸軍兵器補給廠(しょう)関ケ原分廠」。小高い丘に建設され、大正時代の初めから終戦の年までの約30年間、使用された。周囲約6キロ、敷地面積は約270ヘクタール。洞窟式火薬庫5、半洞窟式火薬庫15など、合わせて50カ所ほどの火薬庫が設置され、東洋一の規模を誇る大火薬庫だったという。現在も国道365号から関ケ原鍾乳洞方面に向かう道に入ると火薬庫や見張り番が常駐した立硝台(りっしょうだい)などの痕跡が見える。火薬庫は放置されたままだったが、戦後70年の昨年からは、関ケ原観光協会が整備。時間限定で第5洞窟式火薬庫の内部が公開されるようになった。今年も4月末から11月末まで、内部がライトアップされ、解説パネルが展示されている。関ケ原町歴史民俗資料館でも関連する企画展が同時に開催されている。
2016.08.01(子林 光和)