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平和の尊さを訴える「空襲体験を語りつぐ大垣の会」事務局次長、高木 正一さん(65)


大垣空襲について講演する高木さん
 戦後70年。第二次世界大戦では多くの人が尊い命を落とした。岐阜県大垣市も1945年3月3日から同年7月29日までに6回の空襲を受け、多数の犠牲者を出した。大垣市史によると、7月29日未明には米軍機「B29」90機が大垣市を空襲し、市街地の大半が焦土となった。被害は消失家屋4900戸(全市戸数1万1297戸)、罹災人口3万人(全市人口5万6470人)、うち死者50人、重軽傷者100人余を数えた。高木さんたちは「あの空襲を忘れてはいけない。風化させてはならない」と毎年、この日に一番近い日曜日に「空襲体験・戦争体験を語りつぐつどい」を開いている。今年も7月26日午後1時から、同市林町の北地区センターで「語りつぐつどい」を開催する。高木さんは「多くの人に参加していただき、体験を話していただきたい。そして聞いてください」と参加を呼びかけている。


市民グループの会合で、
映像を使って説明する高木さん
 「語りつぐ大垣の会」が誕生するきっかけとなったのは、福岡空襲を題材にしたアニメ映画「火の雨が降る」の1989年の上映会。上映実行委員会の取り組みの中から、「大垣空襲のことも知りたい」との意見が出されたのが始まりだ。同年6月に第1回となる「私の空襲体験、私の聞いた空襲を話してください、聞いてください」の集いを開いた。参加者の中から「大変有意義な集いだった。来年も開いたらどうか」と言う声が数多く出され、翌年に正式に会が設立され、以来事務局長が入院したり亡くなった2005年と07年を除いて毎年「語りつぐつどい」を開いている。高木さんは演劇や映画の上演、上映仲間たちと上映委員会の時から参加。会の事務局員は岐阜経済大学名誉教授の池永輝之会長を含めて20代から80代の7人。高木さんは会が発足以来、事務局次長として活動を支えてきた。


紙芝居形式の「大垣の空襲」
 「語りつぐつどい」では、参加者が空襲体験や戦争体験などを話し合うほか、被爆体験者やシベリア抑留体験者などの話も聞いてきた。紙芝居形式の「大垣の空襲」を作成し、事務局員や参加者が当事者になっての朗読劇も行ってきた。冊子の作成、戦争展、戦跡巡りなども開いてきた。事務局員作詞作曲の歌「あなたに伝えたい」もつくった。高木さんは「当初の参加者は10数人だったが、最近は40〜50人と増えている。多い時は60人の参加もあった。このために、紙芝居の上演や参加者で『あなたに伝えたい』の歌も歌いたいのだが、みなさんの意見をよりたくさん聞くために時間がない」とうれしい悲鳴をあげる。
 大垣市史では、大垣空襲のうち4回目の7月24日には、南方から市中心部に飛来した「B29」1機が爆弾1個を投下し急転回して南方に去った。爆弾は高砂町地内に落下、岐阜県農業会大安支所や周辺民家などが全半壊、20人が即死した。当初は1トン爆弾と思われていたが後に長崎に投下された爆弾と同型、同重量の模擬爆弾だったことが判明したという。


水門川沿いに立つ「被爆地の跡」の碑。
花が添えてあった=大垣市高砂町で
 高木さんは「研究者の資料によれば大垣市には軍需工場が多く名古屋市の衛星都市として米軍の空爆目標とされた。模擬爆弾は広島や長崎への原爆投下の訓練だったことは明らか」と話す。さらに「語りつぐつどいの会場は、いろんな人との出会いの場であり、そこでは参加者同士のいろんなつながりが出来てくる。私も多くのことを学びました。戦争体験や空襲体験をした人たちも少なくなった。二度と戦争を繰り返さないためにも今のうちに次の世代に戦争の悲惨さ平和の尊さを伝えていかなければならない。そのために何ができるのかを参加者とともに考えていきたい」と問いかけている。
2015.07.01(子林 光和)

今回の西美濃な人

高木 正一(たかぎ しょういち)

 元岐阜県立高校教諭。初任地は益田(現・益田清風)。その後、大垣工業や海津北(現・海津明誠)、揖斐の各高校で理科や数学教師として教壇に立つ。生まれ育った大垣市俵町も空襲に遭った。幸い実家は消失しなかったが焦げた柱を見て育ったという。健康法は近くの金生山にたまに登ることとか。事務局次長だが、事務局長死亡後も空席の事務局長に代わり会の運営に当たる。3人の子供は独立し、大垣市青木町で妻と妻の両親の4人暮らし。


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