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大垣つれづれ

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大垣つれづれ

昔の不便だが豊かな旅

 いまや東京は大垣から日帰り圏内である。名古屋経由で列車に実質乗る時間は2時間ちょっと。片道3時間ほどあれば、たいていのところに行けてしまう。名古屋あたりのちょっと不便なところに公共交通機関で行くのとたいして変わらない時間である。しかし昔は片道10日はかかる旅だったのだ。前回、菱田海鴎がヨーロッパ渡航を志した話でご紹介した小原鉄心たちの江戸往復の記録、『亦奇録(えっきろく)』で、幕末の旅の様子を探ってみよう。時は慶応2年、すなわち西暦1866年、維新の2年前という、後から考えれば幕末ぎりぎりの旅である。行きは陰暦3月26日大垣発で、宮(熱田)まで美濃路、宮から東海道に入って10泊11日目に江戸に着いている。戻りは数名、別行動をとったが、鉄心やお殿様は6月10日江戸発で同じ経路を逆に辿り、やはり10泊して11日目に大垣に着いている。行きは外国人の店が並び幕府経営の鉄工所が出来たりしている横浜に寄り道し、戻りは宮で2泊して出迎えの大垣や名古屋の人たちと宴を開いているから、本来は9泊10日あれば十分のところであろう。しかし殿様や要人の到着、帰着は、迎えの準備もあるから、あらかじめ日にちを確定しなければならない。そこで道中何かあったときのことを考えて1日余裕を見て11日という日程を設定し、最後で調整ということにしていたのではなかろうか。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』でも江戸を発って10泊目が宮だが、何しろ弥次さん喜多さんの旅は無駄もあるので、もう一日は短縮が可能なようだ。
 また幕臣ながら洒落本作者で狂歌では蜀山人の名で知られた太田南畝(なんぽ)の旅は、早いペースで宮が8泊目である。大垣・江戸間はまずは9泊10日が標準的なところだろうか。ちなみに東海道を京都までだと、126里、約500キロの行程で13泊14日くらいになるようだ。もっともこうした勘定は途中で名所見物などせずにひたすら歩いてのことである。ケンペルが元禄4年(1691)に京都から江戸へ旅したときは、駕籠や馬も利用して11泊12日で江戸に着いている。古代ローマの旅人は街道を1日50キロ進んだということだが、日本の東海道では1日8から10里、すなわち40キロあたりが普通だったらしい。女性や老人で6から8里というところだろうか。帰りの旅で1日に14里進んだ日は、鉄心がさすがに今日は大変だったと記している。
 明治になって東海道線が開通してからも、東京行きは一日仕事であった。寺田寅彦が明治32年、東京帝大に合格して高知から上京する旅の記録が『東上記』として残っているが、それによると名古屋を早朝発った汽車が新橋に着くのはすでに夜である。焼津の浜で網を打たせ、とれたての刺身をなじみの宿で賞味する鉄心たちの旅には及ぶべくもないが、まだ昔の汽車には、駅ごとの売り子さんに心なごむものがあった。このうえリニアなどと思うのは、こちらが老境に入ったしるしであろうか。


2010.8.16