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司馬江漢と江馬蘭斎の交流

 すぐれた英文学者で評論家でもあった中野好夫は、幕末に多方面で活躍した異色の人物、司馬江漢(1747−1818)の生涯を彼が遺した24通(のち1通が発見され現在では25通)の書簡の内容から読み解くユニークな論考『司馬江漢考』(昭和61年2月新潮社刊。中野は昭和60年に他界)を遺したが、これは昭和55年から58年にかけて雑誌「新潮」に断続的に連載されたものであった。書簡の宛先はほとんどが1通か2通留りだが、8通残る鍋島藩士山領主馬(やまりょうしゅめ)利昌宛てに続く数があるのが江馬春齢あての5通である。春齢は大垣藩医の江馬家代々が継いだ名であって、初めは2代である蘭斎宛てだが、その後、蘭斎が隠居し3代松斎が家督を継いでも、江漢の書簡の宛先は変わらず江馬春齢で、文中に大人君、御隠居に宜しくといった文言は見えるものの、もとより蘭斎が披見することを考えての内容であり、基本的には蘭斎宛てと見て良いであろう。これらの書簡を読めば、中野が紹介する書簡以外にも、二人のあいだでいまに伝わらない書簡のやりとりがあったことが推察される。
 江馬蘭斎は杉田玄白や前野良沢らによる『解体新書』に心動かされ蘭学を志して寛政4年(1792)、46歳のときに江戸へ赴き、良沢らにオランダ語と蘭方医学を学んで寛政7年ころ、大垣に戻ったと考えられている。帰国した蘭斎は大垣藤江村の自宅に蘭学塾、好蘭堂を開き、門人を輩出させるが、彼はその3年ほどの滞在中に江戸の蘭学者たちと積極的に交流したと思われ、その中に司馬江漢も入っていたに相違ない。蘭斎と江漢は同じ延享4年(1747)生まれで、江戸っ子の江漢は蘭斎よりも早く33歳ころにすでに良沢門に入っていたらしい。おそらく平賀源内あたりが紹介してのことであろうか。春齢宛ての5通のうち、年記の無い初めの1通は鼻っぱしの強い江漢らしい意気軒昂の書き振りで、中野はそれゆえにこれを寛政末年のものと推定しているし、私もそれが当っていると思う。
 2通目は内容から文化9年(1812)6月と推定されるもので、そのあとに文化10年(1813)6月、同年閏11月と続く書簡では、齢が進み老いゆえに無気力になっていく自分を情けなく思う繰り言が綴られ、その点は同じころに書かれた山領主馬宛ての書簡の内容と似たり寄ったりである。文化10年6月の年記がある書簡は、同年8月に江漢が版を彫らせて印刷、知友に配った偽の死亡通知と似た内容で、それに添えられた払子を持つ横向き坐像とそっくりの自画像が書簡の中にも描かれている。江漢は62歳の文化5年(1808)正月以降、年齢を9歳水増しして自称、それゆえ死亡通知状には76歳で没(このとき本当は67歳)と記されている。中野は江漢が蘭斎と自分が同年生まれであることに格別の親しみを持ったのではないかと記しているが、おそらく迫りくる老いの自覚がそうしたこだわりをさらに強くさせたかとも思われる。蘭斎が大垣に戻って以来、二人が江戸で会う機会は無かったようだが、関西への旅に出た江漢が、一度だけその帰途に大垣の蘭斎宅に寄り、どうもそのときに江漢工夫の亜麻油を用いた油絵技法による自画像を蘭斎に贈ったようである。蘭斎にも江漢が自宅を訪ねたことを認める記述がある。この江漢自画像の話には、以前紹介した幕府の開成所画学局に勤務する大垣出身の医家で絵も堪能な宮本三平や、鮭の絵で知られる洋画家、高橋由一も絡んでいる。このあたりについては次回に譲ることにしよう。


2017.10.27