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大垣つれづれ

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鉄心が見なかった月ヶ瀬の梅

 小原鉄心が私淑した3歳年長の禅僧、大垣全昌寺25世鴻雪爪(おおとりせっそう)は、晩年に出版した回顧録『山高水長図記』の中で、鉄心と共に月ヶ瀬渓谷の梅を探勝する計画があったことを語っている。そのきっかけは斎藤拙堂が著した『月瀬記勝(げつらいきしょう)』であって(加えて早くに月ヶ瀬を訪れた梁川星巌夫妻から話を聞くこともあったと思われる)、彼らにこの企てがあることを知った拙堂は、毎年、その年の見ごろを知らせてきていたらしい。津に住む拙堂はもちろん同行し案内するつもりだったろう。ただおそらく鉄心がなかなか日にちを取れなかったと思われる。大垣から片道4日、さらに探訪に2日は要ろうという旅が、多忙な鉄心にはきつかったであろう。そうこうしているうちに雪爪が福井の松平春嶽に呼ばれて大垣を去る安政5年(1858)の早春になってしまった。鉄心は、自分は公務でとても行けない、しかし福井に行かれると、さらに遠方になって訪れにくくなる、菱田海鴎がちょうど江戸に発つところだし、代わりに彼を連れて行かれたらと言う。
 こうして雪爪と海鴎は月ヶ瀬の景を満喫し拙堂にも会って大垣に戻るのだが、地元伊賀や伊勢の文人が紹介するのみであった名張川の峡谷を梅花が埋め尽くす絶景を全国に知らしめたのは、先述の拙堂の著作にほかならない。この本の刊行は嘉永4年(1851)であり、拙堂自身が初めて月ヶ瀬を訪れて本の構想を得たのは文政13年(1830)のことである。このときは星巌夫妻も一緒だったが、実は夫妻にとってこれは2度目の月ヶ瀬探勝であった。大垣の文人たちの中で最初に月ヶ瀬を訪れたのは星巌夫妻で、文政6年(1823)2月のことである。夫妻はその前年の重陽の日に足掛け5年の西征の旅に出たところで、その最初に出会う勝景が月ヶ瀬渓谷であった。この旅の記録を詩集にまとめることを考えた星巌は、九州を訪ねた頼山陽から西国についての情報を得、それに自身が直接得た情報も合わせ加えて、訪れる風景、面会する文人等について細かく計画を練ったに違いない。この時点では月ヶ瀬はまだ広くは知られていない景物だが、伊賀上野の服部文縁(号竹塢=ちくお)のような恰好の案内者がいた。拙堂の本にも記すように、月ヶ瀬の梅は、勝景を求めて植えられたものでは無く、田畑の作物に頼れない山里の経済が紅染めの媒染剤としての烏梅(うばい)の生産に活路を見出した故のものであった。
 斎藤拙堂の著した文章と漢詩に細かく手を入れ、それをさらに輝きあるものにしたのは頼山陽だが、彼が浦上春琴や雲華上人ら親しい仲間7名で月ヶ瀬を訪れたのは翌天保2年(1831)である。拙堂の本は乾坤(けんこん)2冊から成り、乾の冊には拙堂による遊記9篇と律詩10首が収められ、坤の冊には拙堂以外の人物、すなわち星巌夫妻、頼山陽、篠崎小竹、中島棕隠といった面々が月ヶ瀬の景に寄せた詩が載っていて、扉裏には断崖の梅を描いた江馬細香の絵も入っている。しかしこよなく梅を愛した小原鉄心が、ついにこの名勝を訪れることなく終わったのは、いかにも残念に思われる。いまはダムに堰き止められて渓谷の景は一変、烏梅の需要も乏しくなってしまったが、梅樹の保存活動は行われているし、何よりも拙堂の本に載る詩文によって月ヶ瀬の名は不朽である。


2017.9.25