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『畸人伝』に載った俳人惟然

 伴蒿蹊(ばんこうけい)の『近世畸人伝』に採りあげられた美濃人をすでに数名紹介してきたが、いつかと思いつつ書きそびれたままになっているひとがいる。『畸人伝』に「惟然坊」として出る広瀬惟然である。この名は辞書には「いぜん」として出る。「いせん」という自署が残るし、気の合った鬼貫(おにつら)の許を訪ねての唱和に、惟然が「鬼貫の夕(ゆうべ)やな」と相手の名を詠み込んだのに対して、鬼貫が「いぜんごじゃった」と返していたりするからだが、彼の故郷である関では今に至るも一貫して「いねん」である。それに夏目漱石や芥川龍之介の昔の文章で言及されるときも、「いねん」とルビが振られている。俳号としては「いぜん」かも知れないが、「いねん」には人懐かしい響きがあるし、僧名と見るにも相応しい感があって、この読みはどちらとも定め難い。
 生年も確定しがたいが、岐阜を訪れた芭蕉に面会して門人となったのが40を少し超えた位になろう。その翌年が「おくのほそ道」の旅で、結びの地、大垣に到着した芭蕉に再会している。その後はほとんど芭蕉の近くにあって、師の大坂での死の床にも立ち会った。蒿蹊は「風狂して所定めずありく。発句もまた狂せり」と書くが、「水鳥やむかふの岸へつういつうい」といった日常語を自在に取り入れた句作が同門の許六(きょりく)などの反撥を買ったものの、そこにあるのは「狂」とはまた違う境地と思われる。関の造り酒屋の三男に生まれ、名古屋の大店の養子に入り妻子を儲けるが、ある日、鳥の羽風に梅花が散る姿に悟るところあって仏門に入ったと伝える。家を捨てとりあえず故郷の関に庵を結んだものの、彼はひたすら非日常の旅に身を置こうとしたひとであり、彼を厚く遇した芭蕉もその点に自らの思いに通じるところを見出したのであろう。
 芭蕉の没後、師の発句を綴り合わせて和讃とした風羅念仏(ふうらねんぶつ。風羅坊は芭蕉の俳号のひとつ)なるものを作り、一種の念仏踊りとして師を弔いつつその名を一般に知らしめる行乞(ぎょうこつ)の旅に生涯を送った。三熊花顛(みぐまかてん)描くところの『畸人伝』挿画には、芭蕉の「鉢叩き」の句を思わせるものがある。それは名古屋の豪家に嫁いだ彼の娘が街角で偶然、乞食同然の身なりで踊る父親に出会った光景とするが、このとき、惟然は「両袖にただ何となく時雨かな」の一句を遺して走り去ったという。また別の伝えに、その後、父が京に居ると聞いた娘が京都の書肆に探索を依頼すると、簡素な線描が自影と見えるものに「おもたさの雪はらへともはらへとも」としたためたもの(現存)が渡されたという。娘が自らも尼となり、父の住した庵に入ったことを知った惟然は関に戻り、暫くは父娘同居のひとときがあったという。もっとも漂泊の思いやまない彼のことだから、それもごく短期間だったに違いないが。庵に並んで残る笠墳の年号をそれとすれば、宝永8年(1711)、60代半ばで没したことになる。20歳そこそこの若い白隠が大垣檜村の瑞雲寺からいまは関市に属する洞戸村の保福寺に移ってきた頃である。7個の什器のみで暮らすことから惟然が弁慶庵と名付けた庵の建物は、いま以前どおりに建て直され惟然記念館として活用されている。ここに勤められ惟然の充実した評伝『風羅念仏にさすらう』を著された沢木美子(さわきみね)氏は、義仲寺に伝えられたものの、永らく忘れられていた風羅念仏の曲と踊りの復元も手掛けられている。


『近世畸人伝』に載る風羅念仏を踊る惟然の図。右端が侍者を連れた彼の娘ということであろう。

2017.7.25