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大垣つれづれ

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藤田東湖が持ち梁川星巌が持った刀

 お誘いを受けて関市の関鍛冶伝承館の「刀に名前を刻んだ男たち−幕末の志士・梁川星巌と日本刀」展を見た。関鍛冶の作で、作者銘のほかに所持銘や注文銘を刻んだ刀が展示され、高名な刀工、二代兼定が藤原利隆と合作した刀もあったが、展覧の眼目はタイトル通り梁川星巌が所持していたと見られる初公開の一振りであった。茎(なかご)に彫られる表銘は「丹波守藤(原照門)」、裏銘は「関於以南蛮(鉄作之)」で、関七流の善定派に属し万治3年(1660)に丹波守を受領して関鍛冶の鍛冶頭も勤めた藤原照門が、当時、貴重視された輸入物の素材を用いて鍛造したと知れる。刀身は持主の都合で少し縮められたらしく、末尾の括弧内の部分が切り落とされており、加えた内容は彼の打った他の刀の銘文からの推定である。反りの少ないこの刀に特別の意味を持たせているのは、表の作者銘に加えて一篇の漢詩が刻まれていることであり、裏のほうには、さらに「東湖先生詩録」、「老龍庵帯」と刻されている。東湖は間違いなく水戸学を大成した水戸藩士、藤田東湖であり、老龍庵は関鍛冶伝承館の江西奈央美氏が推定された(毎日新聞記事)ように梁川星巌そのひとであろう。
 同じく毎日新聞は、第二次大戦後GHQ(連合軍総司令部)が接収した10万振りの刀剣の中から千振りほどが関市に返還された中にこの刀があったと記しているが、武器とみなしての手ひどい掠奪や接収の嵐が吹きまくったのち、日本刀の美的価値が認められて一部の返還が行われた時に旧蔵者不明のものが各地の博物館等に譲与されたようで、この刀が関市の所有になったのも、おそらくそうした経緯からであろう。刀に刻まれた皇室を輔弼してこの国を長く統治してきた徳川家を讃える詩は、藤田東湖がこの寛文年間あたりに造られたであろう刀の入手の際に刻ませたものであり、彼とほぼ同年輩の梁川星巌がそれを譲り受けたのであろう。「東湖先生詩録」、「老龍庵帯」の文字が刻まれたのが、その時すぐであったか、少し時間が経ってからだったかは分からない。そもそも星巌がいつ老龍庵の号を名乗ったかが問題である。星巌の京都での最後の住まい、頼山陽邸の北隣の家が庭に老松あるゆえに老龍庵と呼ばれたことは広く知られる通りで、この命名自体は珍しくなく、あるいは星巌の住む以前からのことかも知れない。ただ星巌の出版された最後の詩集、『春雷餘響』は明治26年の刊行だが、この本の自筆にかかる序文は安政元年(1854)、星巌が66歳のときに記されており、その末尾に「鴨沂(おうき)小隠の老龍庵にて識す」とある。鴨沂小隠はすなわち星巌が嘉永2年(1849)以来住んだ川端丸太町の家であり、その書斎が老龍庵だというのである。この名が何処から出てきたか。そのひとつのヒントが星巌の妻、紅蘭の長編詩「買琴歌」にある。長く自分の琴(文人が愛する七弦の「きん」)を持ちたいと願っていた49歳の彼女は嘉永5年(1852)初夏、ついにすばらしい古琴に出会う。五百年を超える年月に生まれた断紋には梅花を思わせるものがあり、夢中になった彼女は装身具や衣類を売ってこれを購うのだが、その琴の銘が「老龍」なのである。この入手は64歳の星巌にとっても慶事であったろう。いま鉄如意、明星巌とともに星巌家の三遺物に数えられるこの琴の名が、あるいは庵号の由来であったかとも思われるのである。
(関鍛冶伝承館のこの展覧はすでに終了しています)


2017.3.29