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小原鉄心にとっての養老

 小原鉄心が良く藩政を司ることが出来たについては、各地域各階層にわたって人脈を広く培っていたことが大きく与かっていよう。たとえば養老大野村の庄屋役であった渋谷代衛(だいえい)の言行録である『弥縫庵(びほうあん)逸話』(明治35年=1902刊)を見ると、鉄心が元和5年(1619)以来尾張藩に属したこの村の人徳ある有力者を信頼できる人物と捉えていた様子が分かり、それが重要な情報の収集に役立ったことが窺える。鉄心はあるとき、尾張藩の一重臣と酒を飲む。その席上、鉄心が鎌をかけたのに相手が驚いたことから、尾張藩が厳重に秘しているある決定が真実と知る。自ら認めてしまったことに気付かない重臣は、鉄心にこの情報をどこから得たかと迫る。渋谷代衛からと答えた鉄心は、急ぎ彼のもとに使いを送って事の次第を告げ、尾張藩からの追求に善処を求めるのであり、代衛は見事にその役を果たす。これは普段からの細かい気配りがあって始めて可能なことであり、鉄心が養老という土地の地政学的な有利性に着目していたことが知れる。
 もちろん養老は高名な滝の存在で知られる遊楽の地であり、明和元年(1764)創建の千歳楼での遊びは、この地方の人々にとって無類の愉しみであった。いま明治以来の建物の玄関を入って左手の和室には、鉄心が筆を揮った「十酔楼」の書額が掛っている。この意は、一両日の積りの滞在が、あまりの愉しさについ十日にも及ぶということであろう。三条実美(さねとみ)や有栖川宮(ありすがわのみや)が「千歳楼」と実直に揮毫しているのに比べて、鉄心の遊び心が嬉しく感じられる。鉄心が私淑していた津藩の儒である斎藤拙堂が大垣に来たのは安政4年(1857)の9月のことで、それまで書簡のやりとりはあったが、二人が直接に顔を会わせたのはこれが初めてであった。大垣で詩会を催したりしたあと、拙堂、鉄心に加えて全昌寺住職鴻雪爪(おおとりせっそう)、野村藤陰、菱田海鴎らが千歳楼で酒宴を開き、互いの思いのたけを語りあって一泊したようだ。この翌年、鉄心が同じく心の師としていた雪爪が福井藩の松平春嶽に招聘されて福井の寺に移ってしまい、彼からの寄信が途絶えたことに苛立った鉄心は、以前は楽しかったのに、あの千歳楼での集いを思い出して欲しいという詩を送っている。
 とはいうものの鉄心は春嶽を非常に尊敬しており、元治(げんじ)元年(1864)、春嶽が参議になったときには、養老山中に求めた格好の竹で杖を誂えて贈っており、それに添えた詩が『鉄心遺稿』に載っている。酒をこよなく愛した鉄心は、そのためもあって数え56歳で生を終えるが、その晩年には養老という地名が公の舞台を降りた自らのいまを象徴するものと思えたようだ。なおも錫を飛ばして活躍する雪爪に「養老の山蔭にひとり暮らし居る人間をお忘れなく」という詩を送り、亡くなる明治5年(1872)の2月には養老勢至(せいし)村に観梅に赴き、老牛が一匹、梅花の下に眠る姿に心惹かれている。このとき鉄心の心には、12年前の万延元年(1860)12月、部下たちを率いて雪深い養老山中で猪狩を展開、大きな老猪を仕留めて酒樽二つを囲んで「雪中納涼」の宴を催した意気壮んな日の思い出が去来していたかも知れない。鉄心は自らの酒にまつわるエピソードの数々を小冊子『飲夢』にまとめているが、たちまち樽が空き、酔を尽くさない者はない、これぞ飲酒の快というものであろうと結ぶこの猪狩を描いた一篇は、彼の酒のありようを伝えてことに印象深い。鉄心は養老観梅の2ヶ月後、4月15日に没した。


2017.3.6