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大垣つれづれ

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大垣つれづれ

天皇の歌に詠まれた美濃茶

 少しく以前のことになるが、地元産の新茶をいただいて香りを楽しんでいたとき、陽明文庫所蔵の宸翰のひとつに美濃茶の名があったことを思い出した。文庫所蔵品の図録を取り出して探すと間違いなくあった。後西(ごさい)上皇自筆の歌が軸に仕立てられていて、「身のうち茶 のみつつしのふ 事とては それより後の むかしかたりそ」とある。ご存じの方には余分な説明を少し付け加えると、陽明文庫は五摂家筆頭の近衛家に伝わる什宝や貴重な古文書の宝庫で、現在の形に整備されたについては、江戸中期、近衛家21代の家熈(いえひろ 1667−1736)の努力が大きい。茶、香、花、文芸、絵画など諸芸に通じる文化人であった彼は、収集した高価な裂地で宸翰類を見事に表装しており、この軸も派手な柄を用いた大胆なあしらいで、ひとときの語らいの思い出を格調ある一幅に仕立て上げている。
 近衛家熈は自らは日記を残していないが、彼の日々の言行を近衛家出入りの小児科医師、山科道安が細かく記録したものが『槐記』(かいき)として伝わっており、家熈の多彩な関心を反映して興味津々の内容で、さまざまな分野の研究者にとって貴重な文献資料になっているが、その享保11年(1726)霜月すなわち11月4日の項にこの軸が出てくる。この日の昼過ぎの家熈の茶会に東本願寺の法首が招かれ、道安がお相伴で伺うと、床に荘ってあったのがまさにこの軸であった。そこで家熈がこの宸翰の由来を説明する。「これは後西上皇が以前、茶会を催された折に、『茶の湯は中古からのものゆえ詩歌には出てまいりませんね』と申上げたところ、『そうでもなかろう、かと言って、いくらもあるというものでもないが』とおっしゃって、その場で詠まれたものです」と。
 後水尾天皇第八皇子の後西上皇は、17世紀を通して生きたひと(1638−1685 在位1654−1663)であり、父天皇の血を引いて文芸はもとより、茶、花、香などの世界にも造詣が深かった。そうしたひとがこの時代の京、それも禁裏で茶を語るところに、宇治に並んで美濃の名が出てくるほどの認識があったことが興味深い。宇治は特別な存在ゆえ名が出て当然だが、そこに美濃が並ぶのが目を惹く。この後西上皇の即席の茶尽しの歌には、宇治茶、美濃茶以外にも、当時すでに「初昔」に並んで極上茶の茶銘になっていた「後昔」(当時の宇治茶師はあとむかしと呼んだらしい。のちむかしとも)の名もさりげなく詠み込まれている。美濃茶の歴史も古く、永正8年(1511)に揖斐郡に茶園があったという記録があるようだし、それに勅願寺が天皇家に茶を献上ということもあったろうから、その名が出てきて不思議ではないが、それでも宇治と美濃が並ぶあたりが気になる。たまたまその時に美濃茶が供されていたのだろうか、それとも何か後西上皇の特別の好みがあったのであろうか。初めてこの歌に接した時に抱いた疑問はいまだに解けない。


2017.1.23