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芭蕉が貰った「南蛮酒」

 『おくのほそ道』の旅を終えて遷宮の伊勢に向かう芭蕉は、元禄2年(1689)8月21日、大垣に着く。しばらく大垣に滞在した彼が曾良、路通を伴って船で大垣を発つのは9月6日であるが、その前日の5日、前の日に室(むろ)の下屋敷を訪ねて面談した大垣藩の家老次席、戸田如水(権太夫)の心遣いの南蛮酒一樽が紙子(かみこ)などとともに旅宿に届けられる。これは大垣市図書館所蔵の如水の日記によって知られることだが、私はこの芭蕉が貰った「南蛮酒」というのがどんなものか、ずっと気になってならなかった。これをワインとするひともあるが、ちょっと無理な話であろう。ではどんな酒なのか。分からぬまま放っておいたこの問題に私が再びとりつかれたのは、これとそう遠くない時期に芭蕉がまた同様に「南蛮酒一樽」を貰っている事実を知ったゆえである。芭蕉は元禄7年(1694)10月に旅先の大阪で亡くなるが、この年の名月には兄が住む伊賀の実家に居て、ここ3,4年来、親しい仲であった大津の河合智月からの時候見舞の品が届いたことに8月14日付けの礼状(故堀口捨己旧蔵)をしたためている。智月の贈物は名月の宴を考えての心配りで、「南蛮酒」一樽に麩20個、菓子一棹と、また「南蛮酒」一樽が出てくる。河合家は主の死後、子が無く智月の弟が家督を継いだが、大津の伝馬役、問屋役であって、裕福だったようである。それは大垣藩の如水も同様であったろうから、そういう立場の人が芭蕉のような人物に進物としての樽を贈るに丁度の酒で、しかもそう慌てなくてもしかるべき酒屋に頼めば用意できるものということになる。
 こういう探索にはまず酒の博士、坂口謹一郎先生の書かれたものをあたるのが一番で、さっそく試みたが、アラキ酒と呼ばれた泡盛や焼酎のたぐいかというあたりまでしか追い込めなかった。それが一転しておそらくこうと分かったのは、坂口先生の次の世代の研究者と言って良いのだろうか、昨年お亡くなりになった、名城大学に居られ名古屋国税局酒類審議会委員長なども務められた山下勝先生の論考に接してである。先生は酒造史の研究者で、とくに味醂について詳しく研究を重ねられたようだ。味醂というと今は調味料だが、芭蕉の時代には新しい甘い酒の種類として喜ばれていたようだ。山下先生の研究によれば、米に麹を交え発酵がある程度進んだ段階で焼酎を加えるという中国渡りの製法に対して、おそらく沖縄で当初から泡盛(あるいは焼酎)に麹、米を足して仕込むさらに甘味を増す製法が開発され、これが南蛮酒と呼ばれて珍重されたということになるようだ。いまに残る伏見の酒問屋笠置屋の享保3年(1718)の勘定帳に「南蛮酒」の名が載るのも、また正徳3年(1713)刊行の有名な貝原益訓の『養生訓』に、「焼酒(しょうちゅう)は大毒」あるゆえに「多く飲むべからず」とあり、さらに「京都の南蛮酒も焼酒にて作る」とあるのも時代的に符合する。また戸田如水の日記には、「南蛮酒一樽」の前に、「風防のため」、すなわち風邪をひかぬ用心に、とあるから、こちらの「南蛮酒」は生薬の処方を加えた薬味酒である保命酒(ほうめいしゅ)や忍冬酒(にんどうしゅ)のたぐいであったかとも思われる。


2016.7.19