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金関丈夫所蔵の頼山陽父子の書簡

 金関丈夫(かなせきたけお 1897−1983)というすぐれた学者がいた。人類学、解剖学の大家で、弥生時代の人骨を発掘、研究した結果、弥生人は縄文人が次第に変化したのではなく、渡来した別の人種との混血から生まれたものという説を樹てたひとである。このひとの業績はこれだけでも大変なものだが、彼の関心は専門分野にとどまらない。ご本人は「少年の頃からの乱読と好奇心が禍いし、専門の解剖学以外の種々雑多な事柄に対して、考証癖が昂じて」と語られるが、明治生まれのひとの素養と趣味がおのずと滲み出た格調ある文章で、民俗、歴史、文学など広い分野について密度のある考証が残されている。ここではそのひとつ「頼山陽父子の書簡」と題する論考に載る大垣関係の記事を紹介しよう。
 1948年5月の文章に「先頃」収蔵したとあるから、入手は終戦まもなくのことであろう、先生は「頼家尺牘(せきとく)」と題するおそらく巻子(かんす)装の一本を求められたらしい。誰か頼家一族の手紙を集めたひとが居て、その7通をもって巻子とし、その後入手した1通はそのまま添物としたのが市場に出たのであろう。先生はそのうちの2通、すなわち頼山陽が村瀬藤城に送った書状と、山陽の息、三樹三郎が梁川星巌に送ったらしい書。状を披露しておられる。村瀬藤城(1790−1852)は頼山陽の初期の門人。美濃上有知(こうずち・現美濃市)の出で、尾張藩領53村の総庄屋の職にあって良く大衆の難儀を救い管轄する地域の立場を守ったひとだが、その職の忙しさゆえに尊敬する山陽と直の面会が叶わぬときは師との手紙のやりとりでの問答と添削でひたすら研鑽をつんだ。彼は江馬細香、梁川星巌らとともに大垣の詩社、白鴎社のメンバーであった。紹介されている山陽の手紙は、二人が知合って割に早くのものらしく、藤城からしかるべき金子を受取っているものの大作は未だしということのようで、とりあえず利息分として絶句一首を差し上げるという内容に山陽の経済のやりくりが窺えて興味深い。
 もう一つの頼三樹三郎の柳川星巌あてとされる書簡は、三樹三郎が星巌の家で馳走になった翌日にしたためたもの。彼は星巌が大事にしている書籍を写したくて借用したらしい。ところが帰途、これを藤井竹外(1807−1866・高槻藩鉄砲奉行で山陽没後は星巌に師事。早めに致仕して京に住む)に見せたく思って彼の家に寄ったのはいいが、相手も名うての酒豪、深酒になって深更帰宅、翌朝早くから写しにとりかかったところに星巌の使いが来て本を戻せの催促。使いを待たせてかくかくしかじかの次第と詫びを入れ、近々再度の拝見をと願ったのがこの手紙。本を人に貸すというのは難しいことで、貸したらすぐ取り戻さないと駄目。時間がたつほど取り返しにくくなる。星巌は良くその辺を心得ていたのだろう。それにしても前日貸した翌朝というのは思い切ったやりかただが、それくらいの呼吸が大切ということも良く分かる。ただ竹外が致仕して京の頼邸近くに転居したのは星巌没後と考えられるので、その点、この手紙の内容にやや不審が残るのだが。もっとも竹外の最後のあたりの勤めぶりは良くなく、勝手に休んで旅をすることもままあったらしいから、あるいはそうした折の仮の宿を訪ねたとも考えられようか。


2016.5.9