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梅をこよなく愛した小原鉄心

 小原鉄心が梅を愛したことは良く知られている。彼は城北林村に営んだ自らの別墅、無何有荘に花の咲く樹や草を択んで五十客としたが、その第一はむろん梅であった。安政5年(1858)冬、江馬細香は、鉄心が二十年後の致仕に備えて別墅を設けたものの、30年上の自分はそのとき、もうこの世には居まいと嘆く詩を賦したが、その中で別墅にはまず梅が移されたと述べている。鉄心は自らの居処に梅樹を配するだけでなく、梅花に名あるところがあれば、わざわざ赴いて観賞する手間を惜しまなかった。同じ安政5年の大晦日、江戸詰めの鉄心は三人の部下と馬を駆って蒲田梅屋敷を訪れる。ここは和中散の薬舗が文政年間から梅の古木を集めたのが評判になったもの。前年には広重の「江戸名所百景」の一として「蒲田の梅園」が刷られているが、鉄心は十年以上前の初訪問のときと同じく、大晦日の凍てついた大気の中に綻び初める花の姿をここに求めたのである。鉄心はこのように定まった日の遊びを繰返して愉しむところがあった。江戸藩邸で冬至の日に催された詩筵もそのひとつである。
 中村規一が『小原鉄心伝』に指摘したように、大垣の郊外では、今は市内に入っている西北一里ほどの牧野、荒尾の村々の梅が賞された。『鉄心居小稿』や『鉄心遺稿』にすでに弘化4年(1847)、嘉永6年(1853)の荒尾観梅の文字が見えるが、文久元年(1861)正月20日には宇野南邨、渓毛芥(たにもうかい)、菱田海鴎ほかの詩友と牧野、荒尾の村に赴いている。蘇軾(そしょく)が流刑の地での詩に正月二十日の日付がある故の企てで、彼が遠方の友人を訪ねる旅に出るにあたって賦した七言律詩の句に韻を得て、各自七首の五言絶句を賦す遊びが行われた。この折は第八句「細雨梅花正断魂」で、蘇軾がいま暮らす流刑地への旅の途次の心境を謳った部分。各々が賦した五言絶句七首の末字にこの通りの文字が並ぶことになる。この遊びは2年おいて元治元年(1864)、また2年おいて慶応3年(1867)と続けられ、それぞれ原詩の第七、第六句が択ばれている。第六句に「半瓶濁酒待君温」とあるからには、当然この遊びには酒が加わっていよう。
 鉄心は明治5年(1872)4月に数え56歳の早すぎる死を迎えるが、この年の正月20日も詩友と牧野村を訪れている。蘇軾の詩に韻を得る遊びは、二年まえ第一句に飛んで今回は第二句「不知江柳已揺村」であった。この優雅な企ては彼の死によって三句を残して終わりを告げる。2月10日、さらに養老の勢至村に探梅に赴けば梅花は満開。そこで賦した詩では、伏見で戦いの後に見た梅、隅田川畔の梅見の賑わいが懐かしく想起され、いまは老いた牛が花の中に眠る目前ののどかな景色こそが好ましいとする。ただ鉄心は名高い月ヶ瀬の梅を訪ねずにしまったのを残念と思わなかったろうか。私淑する斎藤拙堂の『月瀬紀勝(げつらいきしょう)』をひもとき、そこに載る星巌夫妻や頼山陽の詩に接した筈だし、また拙堂自身から幾度も誘いを受けていながら、彼はついにその勝景を見ずに終わった。「梅は近景より遠景」とする鉄心が、この「花は山水を挟んで奇、山水は花を得て麗」の渓谷の村々を訪れたら、どんな詩を賦したことだろうか。


2016.2.15