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大垣つれづれ

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志賀直哉が心惹かれた名工

 私がその人を知ったのは、戦前刊行のある女性が書いた奈良の寺と仏像についての著作であった。事柄があまり名誉ではない話の故か、そのひとも志賀直哉が彼をモデルにした短編で用いた名前をそのまま踏襲していた。だから私はまず金沢蘭斎という名でその人を知ったのである。東大寺三月堂の多聞天が踏みつける邪鬼について、説明のお坊さんがこれが問題のもので、最近ベルリンの博物館から本物を引き取らないかという問合せがあったと話したということから、蘭斎が修理のときにすりかえて本物を外国人に売渡した噂があることが紹介される。この他にも、法隆寺の伎楽面や浄瑠璃寺の十二神将の流失など、彼がかかわったとする噂はいろいろあるようだが、これらは一方で廃仏毀釈に厳しいお寺の運営を助けることでもあったのではなかろうか。実際の名を加納鉄哉(てっさい)というこの人は、大変腕の立つひとで、道具類から彫刻、絵画に至るまで、どんな素材のどんな用途のものでも見事にこなせる作家であったが、こと贋作については、甘いというか至って無邪気なところがあったようだ。
 志賀は大正14年に奈良に転居したとき、先に奈良に住んでいた鉄哉の工房を訪ねたと、戦後になって著した短編「奇人脱哉」に書いている。それゆえ志賀は生前の鉄哉に会ってはいるものの、鉄哉はこの年の10月に81歳でぽっくり亡くなってしまうので、いろいろなエピソードは鉄哉の息子の和弘や弟子の渡辺脱哉から取材したようだ。さきに挙げた本では、次に志賀が昭和2年に発表した「蘭斎没後」からの引用がある。長くなるので要約すると、ひところ梁川星巌の書が大変流行した折に、蘭斎はかなりうまい贋物を作った。その一つを妻の紅蘭女史が見て、確かに先生の真筆には違いないが、よほど気分の勝れぬ時の筆であろうと云ったという話がひとつ。ついで前の美術協会長であったS子爵(これは上京して生活に困っていた鉄哉の才能を見出し、さまざまな援助と機会を与えた佐野常民のことであろう)の家に泊まったときの話で、寒い晩で六曲屏風が寝床に立廻してあったが、見ると彼が以前作った贋物だった。主人が承知で故意にやらしたことか、それとも無心でさせた親切か見当がつかなくて冷汗を流したというものである。「こんな話をする蘭斎を見てゐると誰も彼を憎めなかった」と志賀は書いている。ただ鉄哉は座談の名手で話をどんどん面白くしてしまうたちだったらしいから、どちらも彼の脚色が入っている可能性はある。
 名工といわれる鉄哉の作品に触れずに贋作にまつわる話ばかりで恐縮だが、彼のすばらしい作品については、岐阜市歴史博物館が平成15年に行った「加納鉄哉展・知られざる名工」の図録をご覧いただきたい。また生涯については「西美濃わが街」386号の特集にまとめられている。鉄哉の先祖は安八郡神戸町加納の出で、天正年間に岐阜に移った。最後に「蘭斎没後」から志賀直哉の鋭い観察を引いて終わろう。「蘭斎は死ぬまで俗気と若さを失はなかった名工である。人々はその俗気を非難し、その若さから来る色々な出来事を非難したが、要するに俗気も若さも実は彼の仕事の「色」となってゐたのだ。人々はそれに惹きつけられながら、その源を気づかず、非難してゐた。気品、枯淡は素より彼の柄でなかったが、彼の俗気は気品や枯淡の仮面を被る事さへ好んでゐた」。


2015.4.20