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大垣つれづれ

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大垣つれづれ

養老線に乗った二人

 大垣を挟んで揖斐と桑名を結ぶ養老線は、大正2年(1913)営業開始のときは養老鉄道だったが、その後、何度も社名が変わり、いま近畿日本鉄道の子会社として平成19年(2007)から当初と同じ名称に戻っている。以下はその早い時代にこの線を利用したと思われる二人の旅の記録である。はじめは明治16年(1683)生まれの岩本素白。早稲田文学部の教授を務め、生まれ育った明治中期の宿場町の姿を描いた「東海道品川宿」などの高雅な文体で綴った随筆で知られるひと。彼の「晩春夜話」に養老が出る。「かつて岳父に伴われて、美濃養老に遊んだことがあった。滝は意外に平凡であったが、秋の大垣平野を見下ろす景色を佳いと思った」とある。彼らは「山の料亭」で食事を摂ったが、岳父は女将(おかみ)と馴染のようだったと続く。素白は大正2年の9月に磯秀太郎の長女登美と結婚しており、この旅はそれから遠くない時期のことと思われる。養老鉄道が部分開業して大垣から養老まで列車で行けるようになったのはこの年の7月31日であり、さらに翌8月1日には東海道線全線の複線化が完成している。彼の岳父磯氏は鉄道関係のひとらしく、あるいは養老線に何かかかわりがあったかも知れない。とりあえず婿あるいは新婚の二人を連れて開通まもない列車に試乗したかと考えてみるのである。「山の料亭」は言うまでもなく千歳楼であろう。
 もうひとりは川端康成。最近、帝大生だった彼の初恋のひとへの送られず仕舞の手紙1通と、彼女からの手紙10通が発見されて話題を呼んだ。この恋は大正10年(1921)の秋に燃え上がり、数か月後に彼女の側からの唐突な拒絶の便りによって終わりを告げるのだが、結果として川端の心に生涯消えない翳りを遺すこととなる。このとき恋人であるひとは岐阜加納の寺の養女となっており、川端は親友と連れ立って加納を訪れ皆で鵜飼を見物したりもしている。それから6年後の昭和2年(1927)、5月末から6月初めにかけて、川端は改造社の「現代日本文学全集」、いわゆる円本の走りの宣伝のために企画された「文芸講演会」の講師として、京都・大阪・奈良・津・桑名・岐阜・和歌山・神戸を2週間で巡るグループに加わり、思い出深い土地を再訪することになる。全国に有名な文士が派遣されたキャンペーンの記録が「改造」8月号に載っており、川端は「西国紀行」を寄せている。前日、桑名の船津屋に泊まった一行は、岐阜での「講演会に後(おく)れるので、大垣駅から自動車で急ぐ。途中岐阜郊外の名物の雨傘を作る家の多い加納町を注意してゐたが、通ったか通らないかも分らぬうちに玉井屋旅館に着いてしまふ」と、心残りありげな書き振りである。ここに「大垣駅から自動車」とあるから、桑名・大垣間は養老線を用いたのであろう。養老鉄道は大正8年(1919)全線開通して、桑名から乗車出来るようになっていたのである。素白のころはアメリカ製の蒸気機関車の牽引だったが、大正12年に全線電化、ただこの費用のことも絡んで、養老鉄道は揖斐川電気工業と合体、社名は揖斐川電気鉄道となっていた筈である。おそらく東海道線との接続が悪いかして、川端たちは大垣で自動車を雇って道を急いだのであろう。


2014.9.19