大垣地域ポータルサイト 西美濃


西美濃
トップ

大垣つれづれ

戻る
大垣つれづれ

パオロ・ローザ追悼

 大垣を3回訪れ、うち1回は10日も滞在した高名なメディア・アーティスト、パオロ・ローザが昨年の夏、急死した。初来日の1993年以来の20年近い付合いで、悲報を聞いたときすぐ追悼の文章をと思ったが、あまりにも突然のことに言葉が紡げなかった。いま9か月ほどが過ぎて、やっとその機会が持てそうに思える。もっとも高名とは言ったものの、はたしてどれくらいの方が彼の名をご存じか心もとない。IAMAS(情報科学芸術大学院大学)のいまの学生が知らないと言うほどだから、まして一般の方がご存じなくて当然であろう。ただそういう日本の現況が淋しいという思いはある。彼が親しい友人2名と32年前に結成したユニークなビデオアートのグループ、スタジオ・アッズーロの名は、ヨーロッパではつねに話題にのぼるし、作品の独創性への評価も高い。それは彼の死に際してネットに寄せられた沢山のメッセージが証ししている。
 彼が教鞭を執るミラノのブレラ・アカデミーの学生たち(彼の娘さんもいた)と大垣にやってきたのは2004年の2月だった。前年、IAMASの学長になった私は、それまでソフトピアのセンタービルで開催されてきたメディアアートの展覧「世界メディア文化フォーラム=インタラクション」を「おおがきビエンナーレ」として街なかで開催することを提案し、この新しい試みにパオロの参加を求めたのである。来日したパオロはイタリアと日本の学生からなるチームに「水行く旅の記―俳句の風景」という作品を造らせた。水門川の四季の広場にかかる橋から水面にインタラクティヴな画像を投影する作品であり、もちろん『奥の細道』への言及がある。木枯を避ける場所も無い深更の橋の上での幾夜にもわたるきつい作業の果てに完成した作品をパオロは句に詠んだ。「橋吐息 ゆらめく光 舟余寒」。イタリア語の3行詩である。彼はふだん隅に舫ってある小舟も作品に取り込んだのだった。メインの展覧からやや離れた場所であったのと寒さゆえに観客が少なかったのが惜しまれたが、制作の過程を通じてパオロの良き教育者としての側面を知ることが出来た。
 パオロが率いるアッズーロの仕事のベースには人間の生への共感があり、確固たる思想が作品すべてを律している。そこではいっさいの機械的なものが影を潜め、声や人が出す音、動作が空間環境を変化させる。彼は作品の全段階について詳細な絵コンテを描き、それをチームのすぐれた技術力で具体化していく。ミラノのスタジオにはたくさんの若い人たちが働いているが、パオロたちはイタリアの職人の伝統をかたくなに守り続ける。国家的なプロジェクトを次々とこなしていながら、彼は「私たちは小さな家族だ」と言う。いかにも職人のそれを思わせる細部に至るまでの綿密な造り込みには上質のユーモアも漂う。当初からの作品に一貫して見られる観客全員が同時に参加できる演劇的展開もまたイタリアの伝統に深く繋がるものと言えよう。1949年生まれの彼は2013年8月19日から20日にかけての深夜、バカンスで訪れていたギリシアのコルフ島で心筋梗塞のためにこの世を去った。享年64歳。前年9月、川崎市民ミュージアムでの展覧のオープニングが最後の訣れとなった。祖父がペスカトーレ(漁師)だった彼が大垣の魚の旨い飲み屋で上機嫌だった夜が懐かしく思い出される。心から冥福を祈りたい。


パオロの「水行く旅の記」の絵コンテの一枚。小舟はスタディを進めていく途中で加えられたので、ここにはまだ描かれていない。プロジェクター3台の映像が川面に投影される。パオロたちの多彩な作品については、Studio Azzurro でネット検索し、彼らのホームページを訪ねてほしい。


パオロの「水行く旅の記」の絵コンテの一枚

2014.5.19