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伊吹山の薬草園

 大垣から見る雪を被った伊吹山の山なみは実に素晴らしい。それを眺めているとまた伊吹山に触れたくなった。今回は信長が開かせたという「伝説」の薬草園についてである。ここで「伝説」と断るには訳がある。江戸時代に造られたある系統の写本に記載があるものの、それ以外に裏付ける資料が無いからである。ただ話はきわめて魅力的で、イエズス会の宣教師たちが信長に求めて伊吹山の山腹にヨーロッパから持ち込んだ植物を植える薬草園を造ったというのである。ところは古代から蓬をはじめとする薬草類で知られる聖なる山、伊吹山。そこに配するに好奇心旺盛の信長とはるばる海の彼方からやって来た宣教師とヨーロッパの薬草。舞台も登場人物も申分ない話である。
 十八世紀の中ごろあたりを中心に、『切支丹宗門来朝実記』、『切支丹実記』、『伊吹山艾草記』、『伊吹山艾因縁記』、『伊吹蓬』と題名はさまざまだが、大筋はほぼ同じ内容の写本が多数残存する。私も東大図書館蔵の一本を実見したことがあるが、宣教師たちの来日から始まって島原の乱あたりに終わるキリスト教伝来からその弾圧に至る歴史物語である。良く知られる『南蛮寺興廃記』などとともにキリスト教排撃が目的の排耶書のたぐいで、一般向きの平易な文章で綴られている。ただ薬草園そのものに触れている部分はほんの数行で、それはタイトルに「伊吹山」と謳う写本も変わらない。人心の掌握には難病の治療が効果的、そのためには薬草園を造らねば、ということで宣教師たちが安土の信長を訪ねて交渉し、伊吹山に五十町四方の土地を与えられ、そこに国から携えてきた三千余種の薬草を植えたというのが粗筋である。
 しかしこれだけのものを本当に造ったのであれば、宣教師たちの修道会本部への活動報告はもとより、どこかにこの大薬草園の訪問記など何らかの記述が残っていて良さそうなものだが、それが見つからないのが不思議である。ヨーロッパ原生の植物で伊吹山にのみ発見されるものが数点あるのを証拠とする説もあるが、それだけでこの園を実在とするのは難しそうである。もちろん宣教師たちがどこかに薬草を植えるということ自体はあったかも知れないが。『南蛮寺興廃記』にも同様に記述されるこの薬草園の話がもし作りごとであるとすると、それはいったい何のためだったのだろうか。思うにこの種の排耶書に見る熱い信仰と殉教の記述は、キリスト教の排撃どころか、逆に読む者をして感銘させるほどの力を備えている。島原の乱のころ、美濃から尾張にかけてだけでも二百を超える村落に信徒が居たという話もある。ひょっとしたらこれは表向き排耶書に見せかけた、実は隠れ信者たちが受難の歴史としてひそかに読み回した本ではなかったか、伊吹云々の題名や薬草園開設の「伝説」もまたそれゆえのことではなかったか、といささか乱暴なことを考えてみたくなるのである。


2014.1.20