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大垣つれづれ

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美濃路を辿った享保の象

 私は大垣に来るまで、京から江戸への旅は、東海道か中山道のどちらかを択んだら、ずっとそれを通すものと思っていた。だから大垣に来るのは中山道からの寄り道と考えていたのだが、大垣に来て美濃路の存在を知り、京から中山道を辿り、湖東から垂井か赤坂へ出、そこから大垣を経て宮に向かい、以後は東海道でという旅が多いのを知った。上洛する家光の一行も美濃路を使っているし、朝鮮通信使もいつも美濃路を辿って江戸に向った。とくにこうした大人数の旅には桑名から宮への船が難物だったのである。長崎から江戸に向ったこの享保の象の一行が美濃路を辿ったのも、船路を避けたからであろう。
 象の来日はつねに話題になる。戦後、インドのネール首相が令嬢の名を付けた象インディラを贈ってくれた昭和24年9月、芝浦桟橋から上野までの道中は深夜にも拘らずいっぱいの見物人があったという。日本に象が来た記録は15世紀初め以来、4回あって、享保の象は5回目なのだが、どういう訳か、このときの象の道中は大変な騒ぎをもたらして道筋の各所にたくさんの記録を遺した。長崎から江戸まで74日もかけての長旅であったことと、将軍吉宗への献上物ということからの関係者たちの異常なまでの緊張がしからしめたのであろうか。すべては享保13年(1728)6月に長崎に入港した清船の船長が将軍ご所望の象を運んできたと述べたことから始まった。象はベトナム生まれのオスとメスだったが、メスのほうは長崎滞在中に病死し、8歳のオス1頭のみが江戸への旅をした。翌19年3月13日、長崎を出発した一行は、最初の難所である関門海峡を何とか船に象を乗せて切り抜け、京で中御門天皇上覧の栄に浴し(象を従四位にして!)5月2日、垂井宿に泊まり、翌3日、美濃路に入った。
 3日は一日で木曽三川を渡りきって起(おこし)宿に泊まるスケジュールが組まれていた。大垣のまちもこの日は大騒ぎだったに違いない。大垣を過ぎるとまず揖斐川が最初の難関。初めは通達どおり船が用意されたが、ここに来るまでの経験で浅瀬なら歩き渡りが可能と分って、象は途中、巨体を水に沈めながらも歩いて渡った。水量の多い長良川はそんな訳にいかず、苦労して船に乗せて渡っている。大変なのは次の木曽川、川幅540間を船で渡さなければならない。朝鮮通信使のときは200艘を越える船を繋いで船橋を造るようだが、今回は馬3頭を載せる船2艘を横繋ぎにして板を敷いて土を入れ、その上に2間半四方、高さ8尺の小屋を建てて、象を落着かせるため周囲を蓆で囲って水が見えないようにした。いまは一宮市に入った尾西歴史民俗資料館にその復原模型が陳列されている。起の渡りはこの周到な準備で無事に済んだが、旅の終わりに控える多摩川では30艘の船を並べて固定する船橋造りで渡している。こうして象は5月25日、無事に江戸に着き、27日、吉宗は念願の象見物を果たすのである。この享保の象騒動については、石坂昌三氏の『象の旅』新潮社刊が、文献の探索に実地踏査があいまってお勧めである。


2013.8.21