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大垣つれづれ

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大垣つれづれ

大垣の繁栄を支えたひとたち

 市史の近代・資料編に大正6年の「大垣商工時報」の記事が載っている。「時なる哉、大正時代の大垣は水力電気、養老鉄道、綿糸紡績、毛織物、化学工業等の新事業が興起して工業地たるの端緒を開き、町は旧来の面目を一新するに至った」。前年の大垣市の全生産額779万中、1位は綿糸で545万、2位が毛織物で102万と、この双方で83%を占める。私はふとしたことからこの好況の時代の大垣に就職した女性のインタビュー記事に出会った。同じ時代を会社側とは別の視点から描くものとして、その内容を紹介したい。本は『越後女工史再発見』(のちに『雪に埋もれた絹の道』として新版)で著者は鏡泰征氏。母上が越後から前橋に出て女工をされたことから、同様な経歴の人たちの記録を遺すことを志されたようだ。ただこの本の中で大垣に来ているのは新潟県東蒲原郡出身の阿部ハルノさんのみである。
 阿部さんは明治39年生まれ、大日本紡績に勤めたのは19歳のときというから大正の終わり近くである。「大日本紡績は大きくて社宅だけでも四百六十軒、工場の寮も六棟あり、女高さんも三千人はいたと思います」。そのころ発行の大垣の地図を見ると、いまアクアウォークと徳州会病院がある駅北の一帯に大日本紡績の工場が巨大な面積を占めている。「朝六時から夕方六時までの十二時間労働で、機械は止めないので休日はなかったです。ただ残業はなかったですね・・・家への送金は月四十円くらい、小遣いが月二円五十銭くらいでね。私の送金は家では肥料代や家の修理代になりました」。このひとは6人姉弟の長女で、家は田を持たず炭焼きを業としていた。小学校には行かず、他家の子守をする傍ら独学で字を覚えたという。大日本との契約は3年で、一週に一度、会社が映画か芝居を見せてくれるが外出は厳禁だったという。それでも彼女は1日しか休まず、辞めるときに58円ほどの皆勤賞与を貰っている。
 「大垣には他にも毛織紡績と中央毛糸という大きな会社が二つありました」。毛織紡績というのは東京毛織のことであろう。この2つの会社も大日本ほどではないが、当時同じく駅北に大きな敷地を構えていた。「私は結婚後、二十二歳の時から夫婦でまた大垣の毛織紡績へ行って十三年いましたが、大垣はいい所で、水良し人情良しで一生住みたかったんですが、戦争が長引いて激しくなったので引き揚げてきました」。淡々と話されているが、内容から見ると結構きつい労働条件なのに「ノンビリしていて金を稼げたから良かった」という言葉が出るのは、それだけ故郷での生活が厳しかったからであろう。ご主人も同郷の方だろうが、大垣に良い印象を持ってもらえたのは嬉しいことである。「若ければもう一度行ってみたいですね」と言う阿部さんは、初版刊行のときにすでに91歳のご高齢であった。こうした人たちが大垣の発展を裏で支えたことも忘れられてはならないであろう。


2013.7.16