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芭蕉門人の中川濁子

 中川濁子、俳号は「じょくし」と読む。『奥の細道』の旅の5月10日のところ、松島の景を賞でての夜、海の見える二階部屋に泊まった芭蕉はなかなか寝付けない。そこで袋の紐を解いて、知人たちが旅立ちに際して呉れた詩や歌の書かれた紙を取り出す。「かつ杉風(さんぷう)、濁子が発句あり」とある。鯉屋杉山杉風は幕府御用の魚問屋で芭蕉の身近にあって彼を支えたパトロンとして高名だが、濁子のほうは殆ど門人に数えられることもない。しかし芭蕉の書簡集を繰ると、元禄元年(1688)2月の伊勢から杉風あての書簡に、「濁子丈、お子たち、御奥方ご堅固に御座なされ候や。拙者無事の旨お告げ下され候」とあり、また元禄7年(1694)10月の死に際しては、杉風と濁子二人あての遺状が残っている。積年の厚情の礼を述べたあと、旅先で亡くなる無念を述べ、老後の楽しみに俳諧の研鑽を勧めるのは杉風あてと同文だが、濁子あてにはさらに「奥様の常に変わらぬご懇情、最後までも悦び申し候」とある。濁子が芭蕉の近くにあって、杉風とともにその活動を支えてきた特別な人物であり、その付合いも家族ぐるみだったことが知れる資料である。
 芭蕉が天和2年(1682)3月に谷木因に送った手紙の追伸には、濁子が忙しくて俳諧の会への出席がままならず、ために句の出来もいまひとつで困ったものと書かれている。濁子は実は大垣藩士で江戸留守居役であり、大垣人として最初期の門人であったようだ。留守居役の職を切り回す彼に画才があったことは、上野洋三氏の著書『芭蕉、旅へ』(岩波新書)で知った。芭蕉が最晩年に描いた「旅路の画巻」について、芭蕉の友人山口素堂が「濃州大垣の画工に丹青をくはへさせて」と記しており、これを収集した岡田利兵衛氏がそれは濁子ならんと推定したのである。その根拠は濁子が芭蕉に頼まれて「野ざらし紀行」画巻を清書していることである。濁子についてはもうひとつ通称の甚五兵衛の名で語られる赤穂事件における活躍があるが、こちらは大垣では知られていることなので省略しよう。これらはっきりしている事実があるものの、その先にぜひ知りたいこのひとの全体像が浮かび上がってこない。「西美濃わが街」の編集をされていた古橋哲雄氏は俳諧史の研究家で、濁子の存在が知られていないことを残念に思い、2002年5月の300号記念に濁子の特集を組まれた。先述の二つの画巻の写真も載っている充実した内容だが、やはり謎の部分はそのままに残ったようだ。古橋氏も上野氏の本に啓発されたと述べておられる。芭蕉の旅を巡る思索の手がかりである「旅路の画巻」(これが失われた許六画・芭蕉賛の「旅十躰」の内容を伝えるというのが上野説である)の最後の図を大垣と見たいとする古橋説に私も何の根拠も無く加担しよう。

「旅路の画巻」(柿衛文庫蔵)の第十図(『芭蕉、旅へ』から)


「旅路の画巻」(柿衛文庫蔵)の第十図(『芭蕉、旅へ』から)

2013.6.17