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大垣つれづれ

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揖斐川に架かる明治の鉄道橋

 揖斐川のいまJRの列車が走る橋梁の30メートルほど上流に、人と自転車、バイクしか通れない橋が架かっている。初代の鉄道橋で、竣工は明治19年(1886)12月。これに先立ち西から延びてきた線路が大垣まで届いたのが17年(1884)で5月25日に大垣駅が開業した。それがさらに加納駅(のちに岐阜駅)まで延伸するには、揖斐川と長良川に橋を架けなければならない。だが日本の鉄道はまだ草創期で、トラス桁は外国に発注せねばならず、当時最長の200フィート物が5連、それぞれの川に必要だった。設計はイギリスから来たお雇外国人ポーナル、彼が引いた図面に基づいてイギリスの会社が製造、神戸に届いた部材が組立てられた。揖斐川の橋の銘板によると、大垣寄りの3連が17年,穂積寄りの2連が18年の製造になっている。
 実はこの橋梁の計画が進められていたとき、東京と関西を結ぶ幹線は中山道を通ることになっていた。東海道筋では船便との運賃競争がきついとされたという話があり、また幕末の経験から陸軍が海岸沿いの建設を危険視したと言われている。名古屋はルートからはずれ、路線は加納駅から多治見方面に向う予定であった。それが数年のあいだにひっくり返り、19年(1886)7月に中山道ルートは工事が大変なゆえ東海道にという井上勝鉄道局長の上申が通って現在の路線となった。この裏には当時の名古屋区長(現在の市長)の奔走があったとも言われている。こうして明治22年(1889)7月1日、新橋・神戸間が単線で全通した。外国の指導を受けてとはいうものの、短期間に大工事を完成させた日本の現場技術者たちの能力と努力も認めるべきであろう。
 さて現在、大垣市の所管になっているこの橋は、平成20年(2008)、貴重な近代化遺産として国の重要文化財に指定された。鉄道草創期に高度な技術を駆使して建設された大規模トラス橋が、ほとんど当初の形態のまま、しかも原位置に残存するという理由からである。この錬鉄製の200フィート・ダブルワーレントラス(台形のフレームを連続するX形に交叉する斜材が埋める)は長良川のほかに木曽川(9連)でも用いられたが、揖斐川のもののみが幸いにも撤去を免れて道路橋として残ったのである。
 明治の橋ということでは、この橋のさらに上流側にある樽見鉄道の橋梁も、アメリカ人技師の設計で明治33年(1900)アメリカ製である。これは御殿場線で不要になったものの転用だが、明治30年代ころからの日本でイギリスに代わってアメリカの技術が優勢になることを示す好例であり、緩いカーブを描く上桁がやさしいシルエットを見せている。ただ、先ほどから話題にしている橋も、建設から約130年経って傷みや錆が著しい。これを文化財として橋脚ともども当初の状態に近い形に修復し、そのうえで活用していくのは容易なことではない。いま大垣市はそのための計画策定委員会を立ち上げ専門家による検討を始めたところで、改修なった姿を見せる日が待たれるが、とりあえず機会があれば明治のひたむきな技術導入の時代の生証人である橋梁2つが望める揖斐川堤の散策をお勧めしたい。


2013.4.15