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大垣つれづれ

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大垣つれづれ

大垣から桑名への舟旅

 頼山陽が文化10年(1813)12月に大垣から桑名行きの舟に乗った折の詩を見つけた。「蘇水遥々海に入りて流る 櫓声雁語郷愁を帯ぶ 独り天涯に在って年暮れんと欲す 一篷(いっぽう)風雪濃州を下る」蘇水は木曽川、一篷は小舟。このとき山陽34歳。浦上春琴ら友人2人とともに、遠江、尾張、美濃を回って伊勢に赴くときである。彼はこの旅で初めて江馬細香に会った訳だが、細香には雪でお別れに伺えない。素敵なあなたに春の京でお会いできたらという詩を贈っておいて、ここでは「独り天涯に在り」と澄ましている。これを見たときに、そう言えば『湘夢遺稿』に同じ舟旅の詩があったし、『星巌全集』でも見たことを思い出した。そこで両方を引張り出して見ると、間違いなく在った。しかも細香と梁川星巌の旅は同じ文政12年(1829)のことで、わずか20日ほどの違いである。まず43歳の細香は9月2日の伊勢の遷宮を目指しての旅で、8月27日早朝の乗船。「平波万頃(ばんけい)一舟軽く 秋晴を卜し得て始めて程(てい)にのぼる 従僕睡余茶を煮るにものうし 同乗事(じ)を解し酒ともに傾く 柳容惨淡霜の下りたるを知り 芦影動揺して岸行くかと疑ふ 十里風帆まさにつつがなく 江天いまだ暮れざるに桑城に到る」万頃は田野の拡がり、程は旅、睡余は眠気の抜けぬ様子、同乗とあり、ともに酒を飲むからには連れがあったのであろうか。十里は大垣・桑名間の旅程、桑城は桑名市街。一日がかりの旅である。
 いっぽう41歳の星巌は妻の紅蘭と二人連れ。9月15日の舟であり、夜に入って桑名に着いている。星巌の詩は三首あり、何れも両岸の風景を眺めつつ、そこに自らの漂泊の人生と老いへの感慨を重ねる形をとって、どこか哀調さえ漂う。とりあえずその第2首を見よう。「北来また南去 雙鬢(そうびん)おのずから斑をなす 逝く水の流れ何ぞ急なる 浮雲の跡(せき)いまだ間(かん)ならざるに 夕陽帰鳥の渡し 秋翠臥龍山 風景長くかくのごとし なんぞしばしば往還するに堪へん」間はひま。時の流れは速く、我が髪にも白いものが混じるようになった。養老の山なみの景色はいつまでも不変なのに、限りあるわが身にこうした旅がどれくらい重ねられるであろうか。星巌夫妻は京に滞在したのち彦根に一月ほど居て3月末に故郷に帰ったばかり、それをいままた旅にのぼろうとしている。今回の旅は津、松坂、鳥羽を経たあと、京と彦根の家を往復し、その彦根の住まいから江戸へと旅立つことになる。天保3年(1832)5月、山陽との最後の別れをするのもこの彦根でのことであり、秋、星巌は江戸に向う途中の掛川の宿で山陽の訃報を聞く。第1首で「この小舟がそのまま我が家」とするのは偽らぬ心境であろう。霜にしおれた柳の姿はともかく、旅立ちの心のはずみが聞こえるような細香の詩に比べての星巌が描写する川筋の風景の淋しさは、20日ほどのあいだにさらに秋が深まっただけではなさそうだ。短い舟旅ながら互いに関わりのあった三者その時々の生への思いが詩句に浮かび出ている。
(文中の日付は旧暦で年齢は数え。星巌詩中の「かん」は原詩では門構えに月)


2013.3.18