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名古屋の本屋と大垣のかかわり

 頼山陽は江馬細香に詩集をまとめることを勧めたが、彼女は固くそれを辞した。このときの山陽の手紙の全文は、没後10年の明治4年(1871)に刊行された詩集『湘夢遺稿』の冒頭に彼の筆跡そのままに掲載されている。天保元年(1830)12月21日の日付がある。現代語に直して少し引いてみよう。「・・・このあいだ大窪詩佛が新しく出版した『随園女弟子(じょていし)詩選々』という本を江戸から送ってきました。あなたのところにあるほうが良いものですので差し上げます。私にも女弟子ありと言えども、むろんあなたほどの方はありません・・・世上一般の女性と違い、とくにほかにお楽しみをお持ちという訳でも無いでしょうから、ご生涯の思い出にこれまでの詩をお択びになって出版されたら宜しいのではないでしょうか。名を求めるのではなく、ご自身のお楽しみとしてです・・・名古屋で良い本屋をお頼みになること、それこそ永楽屋あたりにおっしゃったならば、すぐにでも出来ましょう・・・撰と序文、評語などは私にお任せください。笑いものになるようなことはいたしません・・・」。
 随園は清朝、乾隆時代の詩人の袁枚(えんぼく)の号。大勢の女弟子を抱え、その選集を出版するが、江戸の詩壇に名を馳せた大窪詩佛がそれからさらに択んで翻刻したのが『選々』である。随園にならって美しい才女を弟子に持つことが当時の詩人たちの自慢であった様子が伺われる。とりわけ山陽にとって細香は誇らしい存在であった。それはともかく、この文中に出る永楽屋とは何か。永楽屋は安永年間(1770年代)に尾張名古屋に創業した書店で、藩校のテキストの出版から始めた初代片野東四郎直郷が『古事記伝』を始めとする本居宣長の著作の出版を引受け、さらに2代善長の時代に葛飾北斎の『北斎漫画』を手がけるなど、ヒットを飛ばして広く知られる存在になった。山陽の手紙はこの2代目の時代にあたり、当時は江戸日本橋と大垣に出店があり、江戸では高名な蔦屋と提携、江戸書物問屋にも加盟していた。山陽は自身監修、村瀬藤城と後藤松陰が編集の『清百家絶句』をこの店から出しており、いつでも口が利けるという訳だったのだろう。
 永楽屋と大垣のかかわりは他にもある。飯沼慾斎の『草木図説』は、彼の生前「草部」20巻が刊行されたが、安政3年(1856)刊行の第1帙(巻1から5まで)は慾斎の親族が直接、制作したものの、おそらくその大変さに音をあげたのだろうか、その後の分(第2帙から文久2年=1862刊の第4帙まで)は永楽屋が担当している。ところで山陽が出版を勧めた細香の詩集は、結局、京都寺町の一書店が中心となり、東京2軒、大阪1軒、それに大垣の書店2軒、俵町の平野利兵衛と岐阜町の岡安慶助が加わっての刊行となった。旧大垣藩士で細香の40歳年下の詩友、野村藤陰が撰と編集にあたったことが、彼の寄せた跋文から知られる。


2013.2.18