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『近世畸人伝』が伝える円空

 来年の1月12日から4月7日まで東京上野の国立博物館で「飛騨の円空」展が開かれる。千光寺所蔵の61体を中心に高山市内の14の寺社にある円空仏100体が出品されるという。開創伝説にかかわる門外不出の両面宿儺(すくな)像も展示されるし秘仏の歓喜天も厨子から出た形で拝観できるとのことで楽しみである。この袈裟山千光寺の名は伴蒿蹊(ばんこうけい)の『近世畸人伝』の「僧円空」の項に見える。それによると円空の時代、この寺の住職は俊乗というひとだった。彼は真底からの「無我の人」で、その点が円空と気が合ったようだ。俊乗はひとがいい加減なことを言っても、それを真に受けて疑うことのない性格だったという。坂を登るのに牛や馬のように四足で這い登ると楽だと言われると、その通りにして麓から寺までの高くきつい坂を登り、楽という話だったが大変苦しいものだと言ったと記されている。また蓮華つつじの花盛りにあの花に背を当てると暖かいから試してごらんと言われ、陽のせいとは思わずに、花に身を寄せると本当に暖かと喜んだとも記されている。「かくおろかに直き人なれば、円空も悦(び)交わられしなるべし」と蒿蹊は結んでいる。千光寺にたくさんの円空仏が残されたのも、この俊乗と円空との心の繋がりからであろう。
 円空が亡くなってから約1世紀後の寛政2年(1790)に出版されたこの本には、彼が美濃や飛騨で「窟上人」(いわやしょうにん)と呼ばれたとある。巨岩を巡る危険な行道の傍ら霊場の岩窟に籠ったゆえであろう。千光寺にはしばらく滞在して飛騨各地を訪れたようだ。千光寺には「立ちながらの枯木をもて作れる」仁王があると記されている。蒿蹊の時代にはそのままの形で残っていたが、その後、伐られて仁王門内に移され、現在は円空寺宝館におさめられている。今回は吽(うん)形のみの展覧とのことである。『畸人伝』にはこの場面のユーモラスな筆致の挿絵が載っていて、円空が村人たちの差しかけた梯子に登って立木相手に鉈を振う様子が描かれている。すでに彫りこまれた顔面が見えるが、それは円空仏の特徴を良く捉えている。この挿絵を描いたのは蒿蹊の友人である画家、三熊思孝(みくまもとたか)である。蒿蹊の序文によると、そもそもこの本を発想したのは思孝という。本は版を重ね8年後に続編が出るが、こちらは思孝が本文を書き、彼の妹で同じく画家の露香が挿絵を描いている。思孝は花顚(かてん)と自ら名乗るほどの桜狂いで、36種の桜花を描き分けた美しい図集『桜花藪』(おうかそう=思孝の没後、露香が兄の画稿を臨写)を遺している。なお『畸人伝』は岩波文庫、中公クラシックス、平凡社の東洋文庫などに入っている。


『近世畸人伝』の「僧円空」挿絵(三熊思孝筆)


『近世畸人伝』の「僧円空」挿絵(三熊思孝筆)

2012.12.17