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正岡子規と大垣

 この11月にソフトピア地区で第5回目のSJ市民大学が開講される。今回のテーマは「食と健康」。4人の方が出講されるが、そのうち情報科学芸術大学院大学の小林昌廣先生の講義は「子規の食・健康・制作」。厳しい病の床にありながら食と制作への情熱を燃やし続けた正岡子規の凄まじいまでの生が語られると思うが、この子規というひとは、実は幕末大垣の有名人二人と思いがけない接点を持っている。ひとりは小原鉄心。鉄心には娘が三人いたが、そのひとり、ふじの結婚相手は大垣藩士柘植四郎だった。二人のあいだに生まれた嫡子、潮音が早くから俳句を志し、明治32年(1899)に子規の門に入って、その才を認められる。ときに潮音22歳、子規32歳であった。父の四郎は維新後、東京に移った殿様、戸田氏共(うじたか)の資産管理の任にあたり、父子ともに東京に住んで、ふじの輿入れに際して鉄心から贈られた無何有荘は、ときに訪れる郷里の別邸だったようだ。死の前年、病床の子規は潮音から貰った岐阜提灯に灯を入れ、「消えんとしてともし火青しきりぎす」と詠んでいる。
 もうひとりは飯沼慾斎。子規のポートレートというと、文化人切手にも使われた横顔のそれがすぐ思い出されるが、これは明治33年(1899)12月に子規の根岸庵近くで写真館春光堂を営んでいた納屋美算が撮影したもの。35年9月に没した子規の最後の写真である。この美算というひとはまずは慾斎の孫にあたる人である。というのも亀山の西村家の出である慾斎は、大垣で医家を営んでいた叔父、飯沼長顕の養子となり娘志保と結婚して家を継ぐのだが、長顕の二男、長矩が養子に行った先で儲けた七男、美算が慾斎の四男の養子となったので、いわば義理の孫である。慾斎の四男自身は桑名の魚商「納屋才」中島家に養子に入っており、美算は慾斎の写真術研究に啓発され岐阜に写真館を開いた慾斎の甥、小島柳蛙の許で修業、桑名で写真館を営んだのち、上京したのが縁で子規を撮すことになる。
 さて子規そのひとは、帝大哲学科に進学(翌年、国文科に移籍)する明治23年(1890)の7月、前年、新橋・神戸間が全通したばかりの東海道線を使って松山に帰省の途中、大垣に一泊している。彼は宿に泊まるのみで、どこも訪れなかったようだが、10年ほど後、俳誌「ほととぎす」に発表した「旅」にその折の印象が綴られている。彼は駅前の玉屋旅館に泊まったが、そこで遭遇した大垣の女性の美しさを讃えている。「女の色白き事ここの名物なるべし。膳はこぶ小女郎、あたら惜しきものに思へどせんなし」。旅に色事を求める子規のこのエッセイは時代を思わせるが、さらに京の宿の下女で触れなば落ちんと思うほどのものがここには掃いて捨てるくらいとまで記している。子規は潮音に逢って曾遊の地を懐かしく思い浮かべたであろうが、そのときはもはや旅が叶う身体ではなかった。


2012.10.15