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大垣つれづれ

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大醒しゃの甦りを喜ぶ

 小原鉄心の別墅(べっしょ)、無何有荘(むかゆうそう)に在った大醒しゃ(漢字は木へんに射)(たいせいしゃ)が修理を施され、新設の奥の細道むすびの地記念館の敷地内にお化粧直しの姿を現した。芭蕉館と先賢館とのあいだに挟まれて、ちょっと窮屈そうなのが気にかかるが、とにかく屋根も崩れ落ちて無残な姿だった大醒しゃが崩壊から免れ保存の措置が講じられたことを心から喜びたい。それにつけてもかつての林村、現在の林町4丁目にあった無何有荘が、他の二棟、すなわち小夢窩(しょうむか)、蓬宇(ほうう)ともども、敷地全体がそのままに保存されなかったのが残念でならない。鉄心がとりわけ愛したたくさんの梅の木を集め、さらに中国の文人の例に倣って花をつける草木50種を択んで植えた庭、幕末の文人が求めた竹と芭蕉もそなわった庭が、きちんと修復して残され、この大醒しゃが、鉄心がわざわざ庭内に引き込んだ流れが造る池畔に建っていたら、どんなに素晴らしいかと思う。
 さて戦後も残っていた無何有荘の庭で子ども時代に遊んだという方が居られたりするわりには、その全体像が分かる写真や絵図を目にしない。『鉄心遺稿』と鴻雪爪(おおとりせっそう)の『山高水長図記』に敷地全体のスケッチが載っているが、庭の様子が何となく分かるくらいのもの。あるところで江馬細香が無何有荘を描いた軸を拝見したこともあるが、これはさらに絵として描かれていて復元の手がかりになるものでは無かった。いまとなっては大醒しゃが残っただけでも良しとせざるを得ないであろう。ところでこれを煎茶の茶室と説明する文章を見ることがあるが、江戸後期、とくに文化文政以後の全国的な煎茶ブームの時代に生きた鉄心たちが煎茶を喫したのは当然と思われるが、この建物に関する限り、茶室というよりはもっと広く幕末の文人趣味に彩られた茶屋、すなわち庭園内に建つパビリオンと見るべきであろう。しゃ(漢字は木へんに射)は中国で水辺にある建物の称である。鉄心とその知友たちは、ここで談論風発、酒を酌むこともあれば、詩を賦し書画に腕を振るうこともあったろう。鉄心の留守にここを訪れた雪爪たちは、瓦を枕に寝そべっている。大垣に来てこの建物を最初見たとき、すぐ頭に浮かんだのは頼山陽の山紫水明処であった。主屋である水西荘は建て替わって、この浅い踏込床のある四畳半の離れだけが当時のままに鴨川の岸辺に残っている。ここは鉄心も梁川星巌もまた雪爪、江馬細香も訪れたところだが、まさに大醒しゃと同じ機能を担い似た唐様の手法で造られているものの、やはり都だけあって洗練された趣きがあるのは否定できない。山陽のほうが30年近く先、彼が50歳のころに建っており、鉄心のほうは安政3年(1856)、40歳のときである。江馬細香は鉄心が20年後に退職したあとのためと言って無何有荘を営んだと言うが、彼はその歳が来る前にこの世を去った。


2012.4.16